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◇「春休み」のこの時期、テレビの子供番組も多岐にわたり豊富だ。まだ子供が小さい時分、一緒になってアニメ番組をよくみた。けれどテレビゲーム機は当時高価なこともあって買い与えなかった。「ゲーム機が欲しい」という言葉を耳にすることもなかった◇〈ポケモン〉が子供を巻き添えにして生じた事件が国内外で話題にさえなった。テレビゲームの危険な側面をよそに、現在まで続く巨大な市場をこちらただ想像するだけ。特に、サバイバルゲームなど仮想世界であらん限りの知力・体力を尽くし、次から次へ襲いくる〈敵〉を蹴散していく◇一人部屋に引き篭もり、家族や世間と没交渉の内向きな青年、〈オタク〉のなかで不思議な意識のみが肥大化し、バランスを失い、現実と仮想の渾然一体の意識のまま、すべの人間が〈敵〉に見えてくる恐怖は、自らに抑えられない〈狂気〉をもたらす◇狂気は凶器をもたずさえ、無差別の殺人事件へ。何という非人間的な世界であり社会か。犠牲者となった方々の魂と遺されたご遺族の悲しみと怒りは、癒されそうにない―。

(3月31日号掲載)

◇ダムが好きか嫌いかと問われれば、好きな方だ。ダムは必要か不必要か
と問われれば、必要なところには必要と応えたい。必要と不必要の意見の相違、論点の違い、論争自体に深い興味は抱かない。手付かずが良いか、手を加えた方が良いか◇その何れでもありうる場合を想定する。しかし、治水・利水の面から築造されたダム築造を自然との関わりに於いて一つの調和ある〈造形〉として見たくもなる。自然の〈怒り〉を柔め、「美」となり、人々の生活を「利」す期待は決して少なくはない◇たとえそれが老朽化しても古代ローマ時代の水道橋が今日でも文化遺産として尊ばれているように。周辺環境との一体的調和をもたらし続けるならば、ダムは〈醜〉ではない。関心はむしろそこに行く。手付かず全てがベストとは思えない◇当初、地元のダム建設賛成派と反対派の両派が地域住民同士のわだかまりにもなった小国町の「横川ダム」が3月23日、竣工した。ダム完成により、風景も当然変わっただろう。けれど、そのダムも次第に人々の心の中に形象化し風景となる。

(3月27日号掲載)

◇花粉症の季節。好天気のときこそ〈要注意〉というから、せっかくの晴れ間なのにと、嬉しさ半分と身を守る防御の緊張感と、感覚器官が分裂する。野山にマスクをかけて入るのも情けない。毒マスクとは違うのだから少しぐらい花粉をすっても大事ないだろうなどと◇そんな、自然への心意気をこの季節だからこそ奮い立たせて見たい。後で泣くのはほかの誰でもない、自分自身だとしても。それこそ、耳鼻咽喉科はもとより花粉のせいで気も狂わんばかりの呼吸困難の責め苦にあうとしても◇季節の贈り物に対し、身はもちろん、心持においても分裂などしては申し訳がない。久しく足を入れていない西蔵王放牧場の奥の辺り、竜山頂上までは登らなくともいい、あの一帯を歩くだけで十分春の季節を謳歌できる。植物園の開園も間近のはず◇友人が横根集落真下の北斜面に、「福寿草の里」構想を真面目に熱っぽく語った。それを聴いていたこちら、ついでに夏には山百合も加えて欲しいな、といった。山林に萱原を持つ叔父は、「萱をただでいいから引き取ってもらいたい」という―。虚言でもない。

(3月24日号掲載)

◇知人の息子さんで東根市出身の新進気鋭の画家、『第1回名和智明油絵展』が3月20日から26日までの1週間、山形駅前の十字屋山形店8階美術ギャラリーで開かれる。頂いた案内ハガキに記されている経歴をみて驚いた。工学博士や医学博士はよく目にするが、「美術学博士」の名刺をもらうのははじめてだ◇郷里山形での個展も初という。紹介を込めて経歴を記そう。1976年山形県東根市生まれ、1994年山形県立山形南高等学校を卒業、東京芸術大学美術学部油絵画専攻に現役入学している◇あの池田満寿夫も落ちた最難関校だ。1998年同大卒業。2000年に同大大学院修士課程終了、卒業作品は帝京大学、国立図書館情報大学などに買い上げられた◇この間、東京の銀座や名古屋のギャルリーで個展を数回開催している。そして2003年にはイタリア政府奨学金奨学生としてAccademia delle Arti di Milanoに留学、2006年には母校東京芸術大学大学院博士課程を修了し博士号を取得した◇経歴に申し分はない。作家は作品での勝負だろうから、こちらその作品に直に接するしかない。愉しみが一つ増えた―。

(3月20日号掲載)

◇「春の歌」(草野心平)が詩(うた)う。〈かえるは冬の間は土の中にいて春になると地上に出てきます。その初めての日の歌。ほっ まぶしいな。ほっ うれしいな。みずはつるつる。かぜはそよそよ。ケルルンクック。ああいいにおいだ。ケルルンクック。ほっ いぬのふぐりがさいている。ほっ おおきなくもがうごいてくる。ケルルンクック。ケルルンクック。〉◇もう少し先の頃か、漢詩の「春暁」(猛浩然)は詩う。〈春眠不覚暁 処処聞啼鳥 夜来風雨声 花落知多少〉と。これを松下緑が訳すと、〈ネムタイ朝ノユメゴコチ チュンチュン雀モ鳴イテイル 昨夜ヒトバン 雨風アレタ 花モヨッポド散ッタロウ〉と。同じ「春暁」を井伏鱒二が、〈ハルノネザメノウツツデ聞ケバ トリノナクネデ目ガサメマシタ ヨルノアラシニ雨マジリ チツタ木ノ花イカホドバカリ〉と詩う◇元中山に通じる「中山温泉」の庭の雪の下、ぽっかり空いたその中に、黄色のクロッカスが一輪咲いていた。何だかこちらも心平さんのように、〈ケルルン クック〉と言ってみたくなる−。

(3月17日号掲載)

◇ 「山形県公共調達入札改善委員会」(委員長・郷原信郎桐蔭横浜大学法科大学院教授)での話を聞いて、教えられることが多かった。公共調達に携わる人々の労苦の一端が現実味を帯びてあぶりだされてくる。それも小泉行財政改革が標榜されて以降、真に国民に必要な事業とそうでないものの峻別が今に見られるように◇エンド・ユーザーである納税者・消費者という視点が、ある時期から強調・重要視されることにより、公共調達手法・仕組みが都市と過疎の納税者の言い分として便利・不便利の2極化や暮らしと生命をめぐる価値判断そのもので〈距離感〉が顕著に落差となって浮かび上がってきた◇そのいわば両極の綱引き状態が明治22年に制定された「会計法」に基づく公共調達の仕組みや、その仕組みが現代の多様に変貌する経済状況下で、その制度・運用手法が噛み合わなくなり、一方に機能不全の様相を呈しながら今日まで到っている様相など◇厳然と今に生きている、ある種、継ぎ接ぎだらけの法体系のもとで、今日までの経済活動に浸み込んできた談合問題は、世の公正なる競争原理を目指すであろう広がりの中で〈カビ〉のように、しかもこれがある一定の合理的所作として機能してきたと教授は言いたげである。ニュアンスはそうだ◇談合を排除することが目的ではないと言い切る。「会計法」と「独占禁止法」の二つの法律の狭間で揺れ動く〈入札制度改善〉は、公益としての基幹産業を無視することなく、いかに位置づけるかにかかっている。受発注者双方待ったなしの状況―。

(3月13日号掲載)

◇「笑い」にもいろいろある。上品な笑いから卑しい笑いまで。吉本興業ではないが、近頃のお笑いの世界、高学歴・高IQの若い芸人がわんさといる。おしゃべりの専門家、アナウンサーまでが芸能人との境界なく、まさにタレント風に振舞う。タレント業も競争社会、中々しんどいようだ◇「いくよ・くるよ」、「のいる・こいる」の漫才コンビが好きで、テレビ画面で姿を見かけたりするとつい嬉しくなる。あとは、ほとんどあまり関心するような芸人はいない。子どもの頃、面白い大阪弁のアチャコ師匠の声をラジオで聴くのが好きだった◇NHKの長寿番組『お父さんはお人よし』で、お母さん役の浪速千栄子から事あるごとに諭される役のお父さんであった。〈ほんまに、もう、無茶苦茶でござりまするがな〉は十八番の台詞◇二十歳の頃、京・大阪を一人旅したとき、天王寺駅前の旅籠に泊まり、ラジオを聴いたときもお笑い演芸番組が寂しさを紛らわしてくれた。しかし本場、吉本の劇場までは足は向かなかった。笑いの効用をよく耳にするが、長続きする笑いのネタ探しほど容易でないものはない。

(3月10日号掲載)

◇北海道洞爺湖サミットが開かれる地元、北海道大学公共政策大学院の吉田徹准教授が『潮流08』(論座4月号)で、「グローバル時代の政祭としてのサミット」という一文を載せていた。中見出しに〈日本は先進国になれるか?〉の文言も。〈社会経済が高度に複雑化して流動化するグローバルな時代に、政治家同士の話し合いで世界の運命が決まると考えるのは、余りにもナイーブである〉という◇そこには純真というより〈うぶ〉に近い意味を込める。そして、〈権力が集中管理のもとにあるという非現実的な思考は、むしろ政治に対する非現実的な期待と過度の落胆を招く〉という。そうかもしれない。さらに、アントニオ・ネグリを引きながら、〈旧態依然とした主権が揺らぐときにこそ、権力は姑息になっていく。「家」=主権を無理に維持しようとするれば、「公共性」=民主主義を破壊することになる。〉と言い切る。そして、〈近未来の主権は、より多元的で開放的であることを強いられている。〉との考えを示す。米・ソ・中も混迷している。

(3月6日号掲載)

◇「雛(ひな)の日」を前にトピックスの不穏な見出しが目に入ってきた。「三浦容疑者友人『真犯人は3人』」と。「出版プロデューサー、高須基仁氏は28日午後、ニッポン放送『テリー伊藤 のってけラジオ』に生出演し、1981年の一美さん銃撃事件について、「(三浦元社長が)真犯人は3人いる、として事件の検証番組の制作をテレビ局プロデューサーに売り込んでいた。私はその名前を知っている」と発言した。(夕刊フジ)、というのである◇ピタゴラスの定理を再度、学び直さないと真実の解を得ることが出来ないような、迷宮入りに近い事件である。そのニュースの行き先も神秘の謎に包まれているようだ。日本でこそ時効が成立していても、アメリカには時効というものはないという◇だが、洋の東西に関わらずこの「3」という数字は数学以上に人間的思惟や思弁の深淵に迫る数字のようでもある。輪廻転生もこれ哲理、それだけに一美さんの顔写真などがこの時期に新聞や雑誌、テレビに映りだされると、もの言わぬ哀れなお雛様のように見えてくる。〈春の夜や重ねかけたる緋の袴〉(子規)

(3月3日号掲載)

◇休日に瀬戸内寂聴と千玄室(15代宗室)のテレビ対談を視聴した。日本文化・伝統のよさを繰り返し語っていた。瀬戸内さん、その旺盛な創作意欲を今では、日常生活を含めパソコンの力を借りないでは済まされない、とばかりキーを打つというよりも、法衣を広げピアノを弾くときのような仕草で笑いこげる◇玄室さん、利休宗匠から連綿と続く茶道裏千家のご隠居、「お香」の世界に話題を広げていく。雅な平安貴族らは妻に香を炊かせ、夫が通う女御や更衣へ送り出す忍ぶ思いをあの時代の一つの文化とでも言いたそうな両人◇中年女性より若い女性の方が日本の伝統文化に多く関心を示しているようだと寂聴さん。「一日貴族の日」というようなものもよいのでは―、と両人盛り上がる。それで伝統守れるのならそれも結構、どうぞイベントばやりの昨今、それも一つ。もう一つのテレビ対談、猪瀬直樹と残間江里子の話題は静岡県で開かれた『2007年ユニバーサル技能五輪国際大会』の立上げから成功裡に幕を閉じたまでの話。ここでも、日本の伝統の技(わざ)が強調されていた。

(2月28日号掲載)

◇童馬山房主人は斎藤茂吉の号、きょう25日は茂吉の命日。上山市の「みゆき公園」内にある茂吉記念館を桜が咲く頃に訪れるのが楽しみの一つ。その茂吉記念館が主催する児童生徒の短歌づくり、歌をつくることに親しみ、郷土のすばらしい風土を再認識、再発見するとともに、美しい日本語を見直すことで、国語力の向上を通した文化の創造と振興を図るため、「斎藤茂吉ジュニア短歌コンクール」を実施している。1月25日でその応募を締め切った◇〈家の前の雪をかぶった三きち山とても大きなかまくらみたい〉(上山市立南小3年槇日向子)、〈はじめての金賞手にして頬つたう涙の中にサックス光る〉(大蔵村立大蔵中1年長沼志穂)、〈十二月友との会話あたたかい部屋のガラスは今くもりゆく〉(上山明新館高2年庄司優香)の作品は平成18年度の最優秀作の一部(同館ホームページより)。春の彼岸が近いのに雪が降り、樹木はまだ寒さに耐えている◇わが家をも縄張りにする猫の足跡が規則正しい間隔で隣家に通じ、その境はない。境に囲まれたそれぞれの家、若く可愛かった隣の柴犬、「さくら」嬢も最近は足腰が弱くなり、「散歩も嫌がるようになった」と奥さん。池のわが家の金魚は氷の下での冬眠から覚める気配もない。

(2月25日号掲載)

◇ある会に顔を出した。「最上川」の話が出た。最上川本流が清く美しい川と思っている人は少ない。けれど「母なる川」と思える点では一致した。世界遺産登録への運動については、競争相手が多過ぎ、筋書きその他後発組としての劣勢などから、あまりに人為・有為的で県民へのインパクトにも欠けるというのである◇平泉のエネルギーには勝ち目はないとの諦めに似た思いも。そこで日本ユネスコのホームページを見た。世界中の顕著で普遍的な価値のある文化遺産・自然遺産を人類共通のたからものとして守り、次世代に伝えていくことの大切さを唱えている国際条約は1972年のUNESCO総会で採択された。2006年10月現在、世界遺産条約の締約国数は184ヵ国にのぼるという◇石見銀山のように世界遺産となれば観光立県にも結びつくだろう。しかし、かつて米沢と庄内に挟まれたこの川の中枢ともなるべき山形一帯は、最上家改易後の目まぐるしい治世者の入れ替わりにより最上川舟運の歴史にもそれとない影が。出羽三山信仰の今日的再発見は東北芸工大中心の「東北学」の形成の一環とも。しかし山形大学での研究実績や新たな公益文化大との垣根ない学際的取り組みもこの機会必要との意見も。

(2月21日号掲載)

◇会社を退職したばかりの青年がチョコレートを袋にいっぱい詰め込んで突然現れた。「今日はバレンタインの日ですから」と、色々な種類のチョコのオンパレードだ。お母さんとイタリア旅行から帰ってきたばかりだという。そのお土産のお相伴に預かったという具合◇維新の志士、清河八郎が母親を元気なうちに一度お伊勢参りに連れて行きたい―、との孝行物語りを思い出した。イタリアの治安は、あの名画『自転車泥棒』ですでに日本でもお馴染み。観光客目あてのスリ・泥棒がわんさと。30人ほどのツアーの一人の女子学生が「トレビの泉」に行った時、財布をすられるという事件に◇現地の私服の警察官が駆けつけて被害者にパスポートの提示を求めたという。一行の何人かがこの警官をスリの仲間と疑い、「警察手帳を見せて」と言ったらしい。示された手帳が軍警察の手帳であったとか◇何でもイタリアの警察組織は複雑らしく、所属・所管も単一でないらしい。犯人はその場近くで捕まって事なきを得たが、それでもお母さん思いの青年、古代の文明都市から続く、まばゆい絵画や彫刻、建物の数々を親に堪能してもらっての無事の帰国、何とも微笑ましい―。

(2月18日号掲載)

◇毒入り餃子が騒がれて以来、不思議なもので妙に餃子が食べたくなる。中華料理は嫌いな方ではないが、シュウマイの美味しいのに当たったことが余りない。横浜にいる義兄からたまに送られるのが唯一口に馴染む◇シュウマイに比べ、餃子はポピュラーなだけに口に入る機会は多い。それだけに、今回の〈中国製餃子〉は、〈日中〉間の政府レベルでも国情や風土など加味して考慮しても、双方の交流をめぐる〈味付け〉にも微妙な影響を及ぼしかねない◇関係者は相当神経を使わざるを得ないだろう。日本たばこ産業や生活協同組合が係わっていることもショックといえばショックであった。前者はもともと〈毒〉と知りながら国の税収になるたばこを、方や日本の食の安全と安心を消費者の味方とばかり歩んできたはずの生協。組合員でもあるこちら、大袈裟だがいささか複雑になる◇多様な組合員の要望に応え切れず、無理をしてまで応えようと製品の確保。今日的な消費流通機構に組み込まれている生協。大学生協に勤めていた友人の苦労話を思い出した。大変なことだ。

(2月11日・14合併掲載)

◇立春も過ぎ、確かに陽が長く感じられるようになった。生物界に見られる季節現象を〈生物季節〉、季節の推移を、主として自然界の景象の変化に関連させて研究する学問を〈季節学〉、と辞典(マイペディア)。けれどまだ冬。テレビから『ペチカ』を松倉とし子さんが歌っていた◇暖炉の一種であるペチカを歌手は〈ペイチカ〉と発音していた。そのほうがロシア語に近いからなのだろう。山小屋で薪や石炭を燃やし、ダルマ・ストーブで暖をとったことはある。しかし、暖炉は洋風の家と日本では相場が決まっていた◇建物の屋根から煙突がにょきにょき出ている国々では、今でも煙突掃除屋さんは誇り高い職業とも。日本でも学校で使用する石炭ストーブ煙突の煤(すす)を掃除をする人がいた。竹製の長い巻き柄を伸ばし、先端に付いているブラシを押したり引いたりしていた◇今では見られない風景、木造校舎の各教室からブリキ・トタン製の煙突がL字状に天井に伸びその筒が外に出ていた。炭・石炭・練炭・豆炭・懐炉・湯たんぽから各種石油・電気ストーブへと。庭先の薄雪の寒さ―。

(2月7日号掲載)

◇新聞発送作業をしていたとき、女子職員が節分にまつわる面白い話をしていた。赤ちゃんを産むため産院に入院していたとき、夜中にそこの病院長が大きな声を出して病院中を、「福はうち、鬼はそと―」を連発し、回り歩いたという。ビックリした人も中にはいたようで、ある部屋からは「キャー」という声も聞こえたとか◇普段から厳つい顔のその先生、さすがに鬼の面こそ被らなかったそうだが、入院中の若いお母さん方から絶大な信頼があるようで、顔に似合わずお茶目なところがあるらしく、その病院の恒例とも思われる「節分」の日は無事過ぎたというのである◇もちろん、病院といういわば一般的な日常空間とは異にするはずの空間、〈程度〉を加減しての季節の行事が今年も行われたのかもしれない。程度を加減しないばかりか大きく脱線してしまい、女性観光客に迷惑をかけて新聞沙汰にまでなった秋田の〈ナマハゲ〉のことを思い出した◇セルロイド製の鬼の面をつけ、母親が炒り豆を蒔く先に回ってはいたずらをし、叱られた節分の季節。鬼やらひ私も追われ藪の中(作者不詳)

(2月4日号掲載)

◇テレビ番組、『夢の美術館世界の名建築100選』をみた。途中からであったが、印象に残る「建物」がたくさんあった。世界の建築物にごして、本県の出羽三山神社本殿の見事な茅葺きが、圧倒的な量感をもって画面いっぱいに広がった◇番組の最後には、あの世界遺産、岐阜の白川郷合掌造り集落の建築群。白川郷ではないがこちら、鶴岡市田麦俣にも似たような多層民家集落があった。最上層の屋根裏は養蚕のための広い空間、合掌造りには「どこか〈人〉という字」に見えてきませんか、と番組で語りかけていた◇建築と人との関係、人類の出現から昔を辿れば、人が雨・露や雪・霰をしのぎ、狩猟・採取、移動・定住の時を刻み、洞窟を居住にしたり、堅穴式や高床式の住まいをしながら、土・木・鉄と堅牢な今日の高層ビルまで、人類の叡智がそそり立っていく。その大小や高低に係わらず、そこに宿す人の思いの見事なまでの技と思い、権力者・非権力者の垣根を越えて残されるべき、あるいは造られていく建築、その空間に人は安らぎ、憩い、そして祈りをする―。 

(1月31日号掲載)

◇ロシアの大文豪ドストエフスキーの作品が若い人の間で今、静かなブームだという。今日28日がその文豪の命日。『悪霊』、『カラマーゾフの兄弟』や『罪と罰』、『白痴』、『貧しき人々』など実存する人間の根底に潜む弧絶感や絶望感、のたうち回る魂が希求する一条の光―◇今もって、人間の根源に係わる問いを発し続けているこの大作家、日本にも多くのドストエフスキーファンがいる。中学のとき、初めて彼の処女作『貧しき人々』を読んだ。そこにはロシアの鉛色の空があくまで暗く、這いつくばるように身を縮めて暮らさなければならい人々の姿が、救いようもないような様子で描かれていた◇世界は一部の諸国を除けば貧しい人々で満ちている。その多くは貧困からの飢えと病を伴う難民として広がる。自爆テロも世界の貧富の差や人種・民族・部族間の対立や不当な差別などから起きている。そしてバベルの塔は狙われている◇ブッシュ大統領のイスラエルに対するにわかの苦言は、唐突な感じのポーズ、信用に欠けると。ビンラディンの無差別テロを息子のオマルラディンがいさめているという。

(1月28日号掲載)

◇医学的に本人の遺伝子を持つ本人の細胞を増殖させ、本人が損傷している例えば臓器や身体の各器官、皮膚や血管などの損傷部に治療回復を目的に施術することは単純に肯定できる。しかし、例えばクローン羊や牛、豚の肉を食する気にはなれない◇遺伝子組み換えによる穀物類や野菜・果物なども同様に食する気にはなれない。もっとも、知らされていればのことで、知らされないまま現在、口にしているかもしれない恐ろしさをまず第一段階、第2段階である諸チェックを素通りして実際、今後日常的に流通過程であるとすれば個人的にはご遠慮申し上げたい◇他人のお腹を借りての代理出産までさせて子孫を残したいとも思わない。これは男女の性差にもよるのかもしれないが、切実に子供が欲しいという人の悩みを尊重したいと思いながら、時代がこのようであれば一層それに組したくない◇人類そのものが複雑な潮の流れに巻き込まれそうな勢いの今、なお自らを中心に新たな複雑系をもたらすことは辛い道のりに違いない。新たな生命に申し訳なさが伴う。その限りで、シンプルな生き方の創出には魅力がある。クローンではなく。

(1月24日号掲載)

◇〈私は、今年を「生活者・消費者が主役となる社会」へと転換していくスタートの年にしたいと思います。〉、と会社のPCに届いた『福田内閣メールマガジン』13号での福田総理からのメッセージである。「政治も行政もこれまでの発想ややり方を大きく転換し、生活者、消費者の立場に立ったものへと変わっていかなければなりません」とも言い切っている◇極めつけの文言が先の冒頭の言葉であった。それなら、これまでは政治・行政が主で、生活者・消費者が従であったことを認めたことと判断してしまう。生活者・消費者が今後どのような主役や消費者になるかに関心が及んでくる。具体的にメールから読み取ることははなはだ困難だ◇これまでも、建前では国民が主役、と似たような言葉が多くの政治家から語りかけられてきた。その国民が生活者・消費者だとしても、それぞれの人が、それぞれの形で歩まざるを得ない歩みを、政治・行政からいわば強いられてきた側面はないものか◇〈転換としていく〉からには、かつて習った政治・経済・社会の並び順序が変わると思いたくもなるというもの。まず、社会が成り立つ経済と、それをもたらす政治・行政なら意味が通じなくもない。しかし、常に公僕は僕(しもべ)とばかりとかぎらない。偉くなり独裁者にもなりかねない。庶民は良き政治を望んでいる―。

(1月17日・21合併号掲載)

◇荒れ庭にスズメよりも小さな「ミソサザイ」の姿を目にした。これは珍しい。珍鳥ではないが、住宅街の庭に立ち寄ってくれるたのが嬉しいー。夏場の木の生い茂る中では、この小さな野鳥を容易には目にすることが困難。葉が落ち、雪囲いして見通しがよくなった分、視界に入ってきた。これは、先方にとっても同様こちらの姿も素早く目にしていたはず。小枝をコトコトとつついては別の枝に移る◇HIRAIZUMI'Sの野鳥辞典によると、山形ではこれを「わざび」、宮城では「みすくぐり」や「ねずくぐり」とも。また、福島では「みそこどり」「みそざんぜ」、青森になると「まめじよ」とか「みそばさみ」、秋田では「みそちんこ」や「くねもぐり」、岩手では「やぶくぐり」と実に多くの呼び方がある。漢字では「三十三才」とか「鷦鷯」と書くようだが、後ろの漢字など読み書きはきわめて困難、出来そうにもない◇馬見ヶ崎川にはコサギや大形のアオサギの姿もよく見かける。冷たい流れの水中にじーっと長い時間脚を入れっ放しで、水中を凝視している。生き物もこの冬を懸命に越そうとしているー。「降る雪や梢の鴛鴦(おしどり)みじろがず」(井上環)

(1月14日号掲載)

◇ 元日に雪景色に変わった山形県、ここに生まれ住む者の一人として清々しい気持ちになった。この清々しい思いのまま、一年を過ごせたらどれほど幸いなことか―◇高校時代の友人3人が連れ立って3月には四国巡礼に旅立つとの知らせ、〈巡礼〉の言葉が懐かしい。温かな気持ちにさえしてくれる。小学生のとき、学校に人形浄瑠璃の一行がきた◇演目は確か、『傾城阿波の鳴門』。両親と生き別れた女の子が一人西国の巡礼姿で母親と対面する有名な場面が涙を誘う。「母(かか)さんの名はお弓と申しますー」、と娘のおつる◇巡礼路にはそのスタート時より、神仏への回帰がそれぞれの聖地に至るまで、常にその道に寄り添うような形で、すでに目には見えないものが準備されているのかもしれない。生と死と信じ仰ぐ人々の巡礼の年の初めのようだ―

(1月10日号掲載)

◇「建設業をとりまく状況について」の中で『建設産業政策2007の概要』を読んだ。〜大転換期の構造改革〜のことばが鮮明に記されていた。改革はストレートに建設投資の急激な減少からコスト縮減と共に受注業者を直撃し続けている◇「依然として過剰供給構造、さらなる再編・淘汰は不可避な状況」と冷酷とも言える文字。実に狙い撃ちそのもののよう、公共投資削減から勢い、建設業や農・林・水産業に到るまで筆舌につくし得ないほどの締め付け、しわ寄せで多くの責め苦となっている◇競争の名のもとに、まるで力の弱いものは死ね、の風潮そのものではないか。今までの時代が異常で、今のこのような時代がそうでないのなら、心底正常と異常の正体を今に示してほしいほどだ◇痛いところは、就業者の高齢化、将来の担い手不足の懸念、これは若い人に聞きたいことでもあるが、産業としての魅力の低下となれば、格差・金・狂乱のもう一つの「3K」とも無縁ではなさそうだ。

(12月20日号掲載)

◇まもなく暮れるこの月に少しばかり人間界から目をそらして、せんりょう(千両)・まんりょう(万両)の木を植物図鑑かで眺めた。どちらも冬の季語、けれど一方はセンリョウ科、今一方はヤブコウジ科。冬、果実が赤または黄に熟して美しい、常緑小低木。名がめでたいから、正月いけ花にすると国語辞典(岩波)にも。同様に、常緑低木のまんりょうは、夏、前年の枝の端に白色の小花が咲く◇果実は球形で赤く、冬落ちない、と。縁起のいい名前から二つともこの暮れによく市場のセリに出される。今では門松を立てる家を見かけることはほとんどなくなったが、松そのものの生育が地球温暖化の影響などから良い枝振りを揃えるのも困難になって来ているときく◇赤い実はこの季節にはよく目立つ。せんりょうの実は葉の上に付け、まんりょうの実は葉の下に付ける。二つの種類の簡単な見分け方、山形市が雪景色になった日、外に置いていた千両の盆栽を家の廊下に入れた。〈千両や君らは知らぬにごりざけ〉(鈴木六林男)も。

(12月17日号掲載)


◇超大手企業からしてそうなのだから推して知るべしである。日本の企業倫理の低さは経済3団体のトップを見ればすぐ分かる。優れて企業の高邁な目的意識とその推進力は経営陣よりも支えている社員一人ひとりの日頃の涙ぐましい努力や向上心に負うているはずなのに◇ピンはねまがいの中間搾取の浮かし金、何処に消え、誰によってそれが仕組まれたのか。恥ずかしい話だ。こういうことが平気でまかり通る神経の組み合わせが超一流とは。何とも知恵というよりもむき出しの功利至上主義と手法そのものとしか思われない◇キャノンはもともとギリシャ語のカノン(規範)に由来するはず。御手洗さんになってから高邁な理念が少しおかしくなった。多くの名著を世に出してきた鹿島出版の崇高な理念もまた時代に翻弄されている。築いていくら、壊していくら、合せていくらの算術思考がすべてに優先する怖さが常に企業には潜んでいる◇ブランドに踊らされる消費者は哀れ、いまでは「無印良品」も立派なブランド、しかしブランドはものによりけりだ。自由と規律は、バランス・シートの上でも生かされなければ。

(12月13日号掲載)

◇子供の頃、寒い季節になると手の甲に細かいあか切れがたくさん出来た。今でも、からだの調子によっては唇に切れ目が生じる。これがまた痛いのである。しかも、切れ目というより何十年も前から同じ場所だけが裂ける。大袈裟だが、マウス・クレバスと言いたいほど◇乾燥したときばかりとは限らない。ここは、からだ全体を被う皮膚とは大いに組成が異なるのが分かる。唇が粘膜で出来ているのに近いようだ。角質層が薄く、しかも皮脂線がここには無いというである◇皸(あかぎれ)も霜焼(しもやけ)も冬特有のまるで季節がくれる有難くない贈り物のようだ。そして、唱にもある歌詞のように昔のお母さんたちは、そのあか切れた手に〈生味噌をすり込む〉のであるから、想像しただけで田舎生活の冬の厳しさが思い起こされてしまう◇少しも改善されない限界集落の衣・食・住環境は一体どこから来ているのか、一度立ち止まって皆で考えなければならない。〈共生〉を言い出したのは福田さんが先か、小沢さんが先かなどの問題ではない。共生になっていないから問題なのである。企業の内部しかり、コアをしっかり−。

(12月10日号掲載)

◇山響楽友合唱団員になっている中学のクラスメートから『ドイツ・レクイエム』演奏会のチケットをプレゼントされた。「一生懸命に練習しました。聴きに来て下さいー」とメモが付されていた。クリスマスにブラームスのこの大作、世界のあちこちでキリスト降誕日を賑やかに祝うというのに◇死者のためのミサ曲・レクイエムとは、一年を閉じるにしてはこちらには重過ぎる。でも、行かねばならない。同じアブラハムを祖としてユダヤ教、キリスト教、イスラム教徒が今でも夫々の派同士で争い続けている世界◇師であるシューマンの死を契機に書き起こしたこの曲、バチカンはレクイエムとはみなしていないという。ドイツはルターの国、曲の完成までかなりの時間を費やしたブラームスは母の死に直面し中断していた筆を再び加え続けたという◇人間の悲しみや絶望、死、救済と希望を作曲家はどのように描いているのか、この機会にしっかり感じてみたい。果たしてこの地上に永遠の都はあるのか、聖地エルサレムにこそ宗派を超えた祈りが届いて欲しい。

(12月6日号掲載)

◇ロボットが活躍している。能力の高いロボットの出現により企業が人減らしを図るとすれば、それでなくとも職を求めたい人の就職のチャンスをロボットが奪い去っていく。それこそ人間力の衰退に直結してしまう恐れも。しかし、「実際、もうそういう時代なんだよ」と知人の一人はいう◇医療技術においても福祉の領域にしても、ロボットの活躍の場がふんだんにあるという。確かに、その開発と高度な成果により、人間社会に今やロボットの出番なくして成り立たないような状況になりつつある◇ロボットとは言えないかもしれないが、子供のような声が出る人形をいつも腕に抱えながら公園を散歩している老婦人とあいさつを交わす。その婦人にとってはいつも側にいる家族。「Aちゃんは、ちゃんとお返事してくれるのよ」という◇あり得るイメージだが、彫刻家のように最愛の家族の等身大の型を取る。公序良俗に反しない良心的な発想と職人技をもって、メモリアルに。昔、どこの家の鴨居(かもい)に掲げられた肖像画と同様に、声の出る肖像彫刻が並べられるかもしれない。

(12月3日号掲載)

◇人間力の衰退は至る所に見受けられ、訳のわからない衝動的な殺人事件が連鎖している。本来備わっているべきはずの理性も自制の心も喪失してしまう常軌を逸した人、その人のどこの部分から派生して来るのか、「怒り」と「憎しみ」の感情のみが肥大化している◇都会や田舎の区別はもうない。人が人を貶め、疎外し、一人の人間の中で動物性と人間性が鬩(せめ)ぎ合い、価値と反価値が土俵際ぎりぎりまで押し合い圧し合いを繰り広げる。人の怒りや憎しみの根底にあるのは一つの間尺に合わない裁き心に根ざしていたりする◇本来、人間のあるべき姿を思い浮かべたとき、現実との余りの違いにたとえ愕然するとしても、それを一度受容し、練り直し、再びあるべき姿に呼び戻す、人間性の回復力に期待を抱くしかないとしたら◇幼子から青少年、壮年、老人に到るまで、人と人との係わりにおいて生じる「無視」や「いじめ」や「虐待」と「暴力」が蔓延(まんえん)する世であるなら、それこそ「人」として今在ることの本来の意味を問い直さなければならないと。厭世も楽天も超えた人間力そのものに傾注して。

(11月29日号掲載)

◇はじめ本名「平岡公威」と言われてもこちらすぐには誰だか分からなかった。三島由紀夫と聞いてそうかという程度だ。「きみたけ」という名前が読みにくいばかりでなく、馴染めなかった。その三島自身が自作の小説『憂国』を映画で演じた◇軍服姿で正座し割腹する場面をみて気分悪くなった記憶がある。新宿伊勢丹近くの映画館で封切られたのを見に行ったとき、腹部に刃を食い込ませ自死への長い時間が続いていた。まっさらな白地の布に血が徐々に流れ広がった◇この場面がグロとも評された。白黒映画で黒がこれほど血の色に感じられたことはなかった。灰色を感じさせない白か黒かの視覚的強烈さを見ているものに感じさせた◇この映画が封切られた4年後、世が70年安保に揺れたその年の11月25日、フィクションの世界が一気に現実の出来事として起きた。市谷の自衛隊総監部に押し寄せた三島は腹を切り「盾の会」のメンバーの1人に介錯を命じ、その生涯を終えた。気味悪い時代の幕開けのように思えた。「憂国忌」とか。

(11月22・26日合併号掲載)


◇珍しく列車に乗る機会が、というよりも乗らざるを得ない用件のため安房鴨川までの乗車券を求め駅に。地図を見て千葉の外房まで回り込む不便さを感じていらない神経がはたらく。無事に行けるのか、行く前から疲れてくる。ただの旅行でないだけ一層そうなのである◇こんなとき京都鴨川などをイメージでもして気を逸らす法もあるかと思う。そういえば確か、あの辺りには加藤登紀子の農場があったはず、などと気が紛れるように時間を割いてみよう。前日まであえて物見遊山の下調べぐらいしておいての気持ちで◇バランスを取るには必要なことだ。着いたらとって返すように、その日のうちに戻らなければならない。都会と地方を常に行き来するビジネスマン諸氏の超合理的で心地よい乗車方法があれば知りたいほどだ。不慣れなしかも独り旅◇列車の「旅」で思い出すのは、若く爽やかなあの飄々(ひょうひょう)と縦横無尽に世界中の列車を乗りこなし、旅を続けている関口知宏の達人芸にあやかりたい。よくまあ、いくら取材クルーと一緒とはいえ見事なものだ。心を空にしてあの山と川を超えて行こう−。

(11月19日号掲載)

◇集英社から出ている読書情報誌「青春と読書」(10月号)に翻訳家の小沢瑞穂が『愛を信じる気持ち』というエッセイを寄せていた。その書き出しがおもしろく、「永遠の愛なんて、結婚式で誓うときの修辞にすぎない、と思っていませんか。」と読者に語りかけていた◇そして、「いく度となく人を愛しては裏切られてきたわたしとしては、ついそんなヒネクレた見方をしてしまう」と綴る。どの程度のヒネクレかはこちら想像するだけ。もちろん、当方に分からなくてもよいことだ◇「いく度となく人を愛しては・・・」、「裏切られてきた」と言うので、お気の毒にと脳裏をかすめたが、気になる。そして、その「裏切った」という思いを抱くようにさせたであろう「人」が不思議と「悪い人」のように思えてくる◇こちらその限りで単純だ。冒頭の数行はこのエッセイのイントロにすぎないはず。かの筆者が訳し終えた小説『赤い手袋の奇跡 マギーの約束』の中に登場する人々の生き方を訳本の紹介につなげる巧妙な仕掛けはやはりプロだ◇読書の秋に読んだつもりになって情報誌の情報を眺め拾い読むのもまた愉しい。PCでは著作権の切れた名作の宝庫「青空文庫」の公開も、ありがたいー。

(11月15日号掲載)

◇「立冬」も過ぎた。歴史年表を見て「11月12日」という日が、わが国にとって素通りできない日であることを再び思った。それも、アメリカとの関わりにおいて。その1つが1871年(明治4年)の岩倉使節団が欧米に向け横浜港から出航したこと、そして彼の地で馬鹿にされたこと◇2つには1948年(昭和23年)の極東国際軍事裁判(東京裁判)の判決が行われ、なお一層アメリカに戒められたこと。時代錯誤とばかり言えない米国との関係は、特にホワイトハウスと江戸幕府、首相官邸において100数十年たった今も本当に対等なのだろうか◇安保で守ってもらっているから仕方がない。少々の無理難題を押し付けられても、という諦念のようなものはないだろうか。先方の言う事を受け入れなければ、こちらの国の安全も保証されないとしたら、これは大きな疑問の一つだ◇事の成り行き如何で、いつも最終的にアメリカは自国を優先し、日本は終いに反故にされるとしたら。利用されるだけでは情けない。そう思いたくなる事柄が滅法多すぎ疑心暗鬼になる。折から米国防長官の来日、それ自体圧力に思えるから不思議だ。

(11月12日号掲載)

◇4日の日曜日、民主党小沢代表が突然の辞意表明、テレビとラジオのスイッチを入れっ放しにした。会見予定の4時を待った。視聴者・国民には空白の30分。その間、画面が局ストックの映像に変わり、ラジオ・スタジオ131のスイッチが黒沢アナにバトンタッチされた。テレビより幾分長めのアナウンスが◇4時31分頃、そのラジオから今度は井上揚水の『心もよう』が流れてきた。咄嗟にしてはいかにも出来すぎている。闘うプロ選挙区の<人>にこの選曲で被せるのか。<寂(サミ)しさの/つれづれに/手紙をしたためています/あなたに/黒いインクが綺麗でしょう/青い便箋が悲しいでしょう>と◇小沢さん、あなたは事前に敵将の一人と公開で碁を打ち、そして意を決して単独、包囲する敵の幕屋近くにまで赴き、政権を握る党首(内閣総理大臣)と差しで対談をなさいました◇勇猛で繊細な水沢の人よ、その心は<恒>なるものの故にか。老醜の常とはー。2大政党の標榜者よ、民意に鋭敏なる民主の道程と知らしめよ。

(11月8日号掲載)

◇夕方、会社が引ける頃、先輩が大きな声で「枯葉よー」と一声唸る。口ずさむというより極端に抑揚を付けての節回しだ。これがお茶目に見えるので皆んなが笑う。「先輩、これから独りで駅前にでも繰り出すんですか?」とこちら。ブレザーを粋に着こなし、スクリーンに登場するナイスガイのように左右に肩を揺する◇上司がからかって「脚長く見えるねぇー」の言葉にも、「ありがとよー」と返す先輩さすが様になる。公園の木々の色づいた葉が夜空に舞う◇昔、よく聴いた『枯葉』、ピアフ、モンタン、ダミアもトレネも鬼籍の人、耳で聞くだけで十分だ。残された映像はもう少し先にとって置こう。秋の夜長に読書もいい、しかしCD一枚がやけに暖かく感じられるこの頃だ。深紅のレーベルに浮かぶ曲目に重なるイメージはやはりダミア◇なぜこうも暗く低い声なのか。友人が評判の映画『エデット・ピアフ〜愛の讃歌〜』を見てきたという。先輩にも聞いてみよう、「Oさん、『枯葉』と『〜讃歌』どちらが好きですか」・・・、「君、愚問だね」と言われそうだ―。

(11月5日号掲載)


◇一国の国防に関するデータがごっそり、どこかの国に筒抜けなどを想像しただけでぞっとする。反面、実にのどかで、最近でこそ危機意識の高揚が叫ばれているものの、妙なところで平和ボケしているわが国の世情などから、ある種、組織の閉塞感や鬱積感から、自衛官の一部にとんでもない国事犯以上の危ない自衛官が潜んでいないとも限らない◇省内外から鵜の目鷹の目で狙われている防衛省の機密情報について、商売を通じて「防衛省御用達」者たちにとっては、それこそ時代劇でよく耳にする「越後屋、お主も悪のよー」の台詞(せりふ)がそっくり使用してもおかしくない不祥事が噴出・続出し、困ったことだと思う◇政商とはよく言ったものだ。現代の政商が官にどれだけ巧妙に取り入っているか、また官がどれだけ精緻に秘匿の技術・ノウハウ・マニュアルを所持しているか、一般市民・納税者にはおよそ計り知れないことばかり。世の中には世にも不思議なやり繰り上手の人がいる。防衛省守屋前事務次官の国会証人喚問を聴いてこの国の腐敗振りの底知れない怖さを垣間見る思いがした。

(11月1日号掲載)

◇PCがこんなに普及しなかった頃、カメラ屋さんから小型のスライド映写機を買ったことがある。公民館で学んだにわか写真クラブの仲間や友人の家での出張映写会などを催すのが好きだった。今は、忘れかけた想い出◇特に「リバーサルフィルム」をほとんど使わなくなってからかなり久しいし、スライド用大画面に自分の撮った画像が映し出されるだけで高揚したのだから。それも、写真的には目も当てられない失敗だらけのフィルムでも。コマ送りの左右の手の操作だけ速くなった◇PC利用の画像に慣れると「便利」さが重宝になってきた。アナログそのもの世界の何より足元からフィールドへ向けての元気が呼び戻されるような錯覚◇動ける間、思い切って大型三脚を詰め込み、性根を入れて風景を「バシャリ」と切り取るのも精神衛生にも身体のためにもいいはずだ。欲張らず、それこそ在るがままに、しかし少しばかり「意欲」という「欲」を抱えて◇幻燈映写に胸躍らされ、アメリカ映画に興奮し、そしていま、アジアの映像群に慰めを得、それに浸り切る。放映された『モンゴリアン・ピンポン』の映像もその一つだった。

(10月29日号掲載)

◇ある医師との会話。不眠症で睡眠導入剤を服用しているこちら。風邪で通院したとき、「これは高い薬だけど効きますよ、飲んでみる?」、「高いのにする、安いのにする?」。「そんな、先生、高い安いでどのように違うのですか」◇この会話だけからこの先生、銭儲け医者の藪(やぶ)というつもりはない。れっきとした経歴の持ち主。先生よ、商人(あきんど)でないんだから「高い安い」の言葉は使わない方がいいよ。腹のなかでそう思い、きっぱり「安いのでいいです」と◇もう、十年以上も通っている市内でも大きい病院だ。少しは気心も通じている。言葉のやり取りを許さない医師より、程よく会話が出来る医師の方がこちらの不安解消にはよい。患者の質問に答えたがらない医師も確かにいる◇これは、頭から「信じろ」で、その結果がよいとも限らない。かえって不安が残るのも確かである。任せてさえいればそれでよいわけにはいかない場合がある。医師により、「ひょん」と本音を出す判りやすいタイプのドクターは、「高い安い」の先生ではないが、その判りやすさで評判という。薬漬けの人は大変だ。

(10月25日号掲載)


◇庭の片隅に紫式部の小さな実、いかにも秋の季語。〈うすら日のそこに紫式部かな〉(稚魚)、〈火の中に見えて紫式部の実〉(尚毅)、〈実むらさき銀水引と荒れまさり〉(杏子)。俳人は好んでよくこの季節を句にする◇庭の紫から思い浮かべるのは紫そのものの色、「法衣」は洋の東西にかかわらず高位・高僧が身につけるとも。しかし夢想疎石は禅僧最高の「紫の衣」を辞退したという。京都五山天竜寺の開祖夢想国師の「枯山水」を学生の頃に見た◇人の有限な存在をして無限を垣間見させてくれるもの、もっとも抽象的に純化された視覚の具象性から表象する形、それはいっそう「竜安寺」の石庭において無駄なく削がれていくようにも見えた。そこから浮かび上がってくるものは一つの〈宇宙〉という◇義天玄承作の石庭、夢想国師の枯山水、沈黙しながらも始まること、終わること、無尽の地の中からまるで石もて叫ばんと木霊するように池泉回遊式の庭に、また方丈の土塀に囲まれていながら、そうではない時空に広がるものの正体こそ、「色即是空、空即是色」なるか。

(10月22日号掲載)

◇ドキュメンタリー・カルチャー・伝統文化/、この項目を満たすNHKハイビジョン特集『オペラ座の弁慶 團十郎・海老蔵パリに傾く』は、日本人にそれこそ誇りと元気を与えてくれる見ごたえのある番組だった。日本歌舞伎がパリオペラ座で大成功、その功により団十郎にはフランス国最高勲章レジオンドヌールの〈コンマンドール章〉が海老蔵にはやはりレジオンドヌールの〈シュヴァリエ章〉が贈られた◇一子相伝に近い市川家に伝わる歌舞伎十八番の『弁慶』、父子で究めようとする芸道の家のこだわり。白血病を病んだ人とは思えないエネルギッシュな役づくりへの姿勢、裏方さんを含める大所帯を仕切る自分の立ち位置のぶれのなさ、その感性がみずみずしく気持ちのよいものであった◇歌舞伎界の大名跡団十郎、若いときにはそれほどと思えなかったが、その話しぶりなどからこの役者、年輪と共に加わる広い表現者としての研鑽ぶりが窺えて〈見得を切る〉ときの寄り目も、六歩を踏む足さばきも実にくっきりと超現実の様式美そのもの、歌舞伎がオペラ座で輝いて見えた−。

(10月18日号掲載)

◇「引越しの日」というのがあるそうで、明治天皇が京都御所から江戸城に移られた日にちなんでのことらしい。いわゆる東京遷都、どこぞの軍支配国ではそれまでの首都ヤンゴンから400`bも離れた軍用敷地内に新首都を移し、そこを新首都「ネーピード」(一般的にはネビドー)と呼ぶらしい◇このミャンマーという国にはアウン・サン・スーチー女史がいる。そしてAPF通信のカメラマン長井健司氏がこのミャンマー政府軍兵士により狙撃され死亡した。旧統治国イギリスの社会契約論者ジョン・ロックの思いの幾ばくも見られない。民主化運動の指導者を今もって自宅軟禁に強いている国、ビルマ◇ミャンマーの元首はまるで王様のように振る舞っているとか。明治元年10月13日の東京遷都、日本と因縁浅からぬかの国は2006年10月10日、軍政府により遷都、いま、僧を先頭に一般市民と共に民主の声を叫ぶ。しかし弾圧する軍の力は弱まる勢いはない。

(10月11・15日合併号掲載)

◇マジシャンの響きはいかにも洒落た感じだが手品師、奇術師、魔術師となると彼らがよく登場する探偵・推理・伝奇・猟奇小説などのイメージと重なって、人は恐るおそる覗き見たがる「恐怖の館」にのめり込んでいくはめに◇メディアは映画、テレビ、ゲーム、漫画、雑誌、小説本と数え切れない数の「入り口」があり、恐怖に近いスリルは退屈する暇もないほど。それでも現代人の不思議な退屈さ加減は、忙しさや複雑な世の仕組み、それに反動する気分の良し悪しで刺激的なイリュージョンの世界に◇映画や物語りで道化役者が人の心に染み入って来るのもうなずける。映画『天井桟敷の人々』でジャン・ルイ・バロー演じる道化バチストも◇今では「クリニクラン」(医療道化師)の登場も。ありふれた日常感覚からの超出はそれ自体が癒しにも。マジック界の革命児セロがタイ北部のチェンマイ市郊外にある、HIVに感染した孤児たちの施設「バーンロムサイ」でのマジックを通じた交流をテレビで。こちら釘付けとなり、静かな感動が胸に広がりつい落涙―。

(10月9日号掲載)

◇少し時間とお金の余裕があれば、小中学校や高校で使われている教科書全科目を買いあさるのも面白いだろうと思う。問題はどこの出版社から誰によって執筆されているかだ。その識別のための基礎作業が必要となるだろうが◇児童・生徒の入学時に取り扱っている教科書販売店に出かけて、まず教科書出版社、著者などが一覧できる冊子などを入手し、そこから先は関心の趣くままに教科やテーマごとにより身近に整理する。平成19年入学の小学1年生にでもなった気分で◇そんな他愛のない動機からでも教科書に潜むその時代々々の変わりようが感じられるのかも知れない。しかし、教科書研究家ならいざ知らず、手に負えない文科省の不思議な、ある種、統制機関のような分厚い壁に突き当たる可能性は十分にある◇それでも教科書から世界が見えて来るものがあるはずだと思い、図書館の司書に聞く前に準備だけはしておく、その作業が今後は増えてきそうな世の動きだ。事実こそ主観を覆す力にはなるが、その事実は常にある主観によって覆されるという危うさがいつの時代にもある。

(10月4日号掲載)

◇「国技館」が揺れている。スキャンダルが多すぎるのだ。こちら、この頃は、「大相撲」を夢中で見ることも少なくなった。極論だが、力士はいくら怪我をしていても、サポーターなどせず締め込み一つで土俵に上がる、そういう決まりごとでもない限り、相撲道の美しさなど描かれはしない◇何しろ、土俵は“神域”、神様の前で力と技を競い合う特殊な「場」、女人禁制も分らないわけではない。相撲、柔道、剣道がわが国の「国技」とばかり思っていたら、文科省は「国技を定義する法律がない」との国会答弁もしているという◇17歳の少年力士が部屋の親方や兄弟子たちから、シゴキともいえる惨(むご)い荒稽古、暴力を受けて死亡したという。その少年力士の遺体は行政解剖され、師匠の時津風親方らは司直の取調べを◇内館牧子横綱審議委員らはどのように一連の協会の出来事を見つめているのか。先の場所では、土俵上に女性観客の1人が駆け上がる前代未聞の珍事も。高見盛などから土俵下に戻されたという。NHK杉山元アナの記者証剥奪(はくだつ)といい、懸念の多い日本相撲協会だ。

(10月1日号掲載)

◇彼岸の中日、親戚を訪ね仏壇に線香を手向けた。この家に大叔母が嫁ぎ、夫婦に子供が出来なかったため叔母を養女に入れた。叔母・姪の血筋だ。その叔母もまもなく80歳になる。大叔母は生前、「実家に80まで生きた人はいない」と言いつつも、自身は80歳を越えての長命だった◇叔母の話によると、晩年まで「私が産んだ子」と言い続けていたという。満1歳の時から育て、育てられた双方なのに。ところが、叔母はいつの頃からか、早い時期に養女であることに気がづいていたという◇その叔母のそういう話が、実にこのように歳を重ねても、しかも、不自由なく来られたはずと思えるのに、あえてこちらの琴線にジワッと触れてくる。同じ流れの血を持つ甥に一体、今更何を伝えたいのだろう◇「これは刈屋梨、甘いから食べて−」、と勧める。彼女の養父は武徳の錬士、それでもなお女系の譜(ふ)にこだわるのはなぜなのか。大河ドラマでは、「男は身に鎧を着けるが、女は心に鎧を着ている」の台詞(せりふ)も。その鎧、毘沙門天を仰ぐ謙信の春日山から差す光かまた陰か−。

(9月27日号掲載)


◇自由民主党の新総裁に福田康夫氏が選出された。9月25日には国会で首班指名を受け直ちに組閣作業が行われる。第91代58人目の内閣総理大臣としてわが国の命運がこの人の双肩にかかる。お手て繋いで迷走し続けた安倍内閣の“内閣ごっこ”のような幕切れ。福田さんからは“おとな”の政治を見せて頂きたい◇奇しくも、9月25日は初代鳩山一郎自民党総裁引退後に2代目党総裁となった石橋湛山元首相の生誕の日だ。高邁(こうまい)なこの政治家の誕生日。福田総理・総裁による組閣が同じ日とは、どのような縁(えにし)なのだろうか◇多難な政局を乗り切るには、いたずらな派閥むき出しの損得勘定だけでは党自体が立ち行かなくなるだろう。挙党一致による党の再生もまた、あくまでも国民には分かりやすく、透明感あるものでなければならない◇民主党もかつての社会党のような無力なままの万年野党でよいはずもない。成熟した双方の力相撲こそ国民に「自由」と「民主」の叡智の「灯」(あかし)としてもらいたい。この時期、内閣の短命・長命を気にすることはない。

(9月20・24日合併号掲載)



◇東京にいる友人が、「山形国際ドキュメント映画祭」の入場券どうやれば入手出来る、というから「IDFF Official Site」のホームページを教えた。開催期間が10月4日〜11日までなので、滞在予定に合せ券を購入したらと伝えた。日程に余裕あれば、前売りの共通鑑賞券の方が便利だとも◇作品の内容の濃さが毎回評判となり、一地域の小都市が海外からも注目される催しは住む住民にとって誇らしく、また贅沢この上ない◇同ページの「やまがたと映画」の項で昭和初期の記録映画の祖ともいえる塚本閣治の「雪稜に熊を狩る」(1936)、「黒部渓谷」(1932)なども放映されるという。日本最初の女性流行歌手、佐藤千夜子が唄う「東京行進曲」、千夜子の姪という人が山形市にある教会の隣りで喫茶店を開いていた。顔かたちが千夜子にそっくりであった◇戦前の滝田静枝という山形市が生んだ女優を知らなかったが、七日町にその孫娘さんという若く美しい人が小さなお店を営んでいた。塚本、千夜子、静枝らと出会える映画祭がはじまる−。

(9月17日号掲載)


◇枡添要一厚生労働大臣がやる気満々だ。もともと瞬(まばたき)の少ない人、その眼光に一層鋭さを増し加える。市町村レベルにおける職員の年金着服に狙いを定め、増田大臣には徹底的な洗い出しを要請した。総務省もそれに応える姿勢だ◇国民と公(おおやけ)に係わるお金の出し入れやそれを記載するときの正確さが如何に厳正でなければならないか、ここに来ていやが上でも私的でアバウトな判断や不適切な処理を見逃さないという意気込みが伝わってくる◇日本の役所全体にこれまで見たこともない緊張感が走ることだろう。公金横領や着服、不当な賂(まいない)の授受、公務員が襟(えり)を正さなければならないことは当然のこと。誰でも叩けば埃の一つや二つは出るものなどと思わないほうがよい◇ごまかしが蔓延(まんえん)している時代の世直しに係わる人々は特に清廉な身の処し方が求められている。役所における裏金づくり、その使途が認められない時代。こういう時代がせこいのか、それとも裏金をつくりだした知恵こそがせこいのか、予算そのものがせこいのか、あらゆるこの種の火種は摘み取られるべきと、枡添さんまるで長谷川平蔵のようー。

(9月10日号掲
載)

◇3日、就任1週間で農林水産大臣を辞任した遠藤武彦衆議院議員のホームページ、「私は山形県農業共済組合連合会(NOSAI山形)会長・置賜農業共済組合の組合長を務めている。NOSAI組合は農協とは異なる。農協は協同組合ではあるが、営利をも求める経済団体である。農家が任意に出資して組合員となる。これにたいしてNOSAIは農業災害補償法に基づく非営利団体であり、災害などによる農作物の損害補填、建物・農機具の火災・事故などの損害補填を行う損害保険組合である◇米・大豆・麦・ホップ・蚕繭・おうとう・ぶどう・なし(ラフランス)・園芸施設・建物・農機具を保険対象としている。特に米は山形県の場合、30アール以上は必須加入を義務付けている。NOSAI山形は共済金額(補償総額)3兆円超、NOSAI置賜は同6800億円超で、一組合員当たり補償額では、ともに全国第1位 の地位を25年、23年連続で保持し続けている。」と◇その農済に115万円の不正ありと3年前、会計検査院から指摘されていた。それが放置のままであることが明るみに。安倍内閣から続けて農林水産大臣3人が消えてしまった。何という異常さだ―。WTOがらみの農政、その病根深く、病巣も抉られないまま、真に農政の大臣(おとど)不在の国とは。このままなら「食」で「日本丸」は沈没する。

(9月6日号掲載)


◇金魚がこんなに殖えるなんて。前の飼い主が釣りの名人、だがその心根には承服しかねるものが多々あった。釣果第一主義の釣り天狗、その心根がさもしく卑しささえ感じた。あえて名人の犠牲となった川や湖沼の鰭(ひれ)のある生き物を食すことを避けてきた。釣りも出来なくなってからというもの、庭ばかり見ている。それも「淋しかろう」、と頼まれもしないのに植木市の季節に金魚12匹を池に放って眺めてもらうことに◇金魚たちもしばらくは元気に泳ぎ回り、早一年が過ぎた。けれど12匹いたはずの姿が2匹しか目に入らなくなった。この残された二匹がつがいとなりその子たちが今では60匹をゆうに超える数に殖えた。そこに空からモズやサギも寄って来る―、とくだんの名人。しかもかの人、鳥以上の目でこれまで金魚が鳥たちに捕食される様子をじっと部屋から観察していたのだ◇何と非情で酷い眼差しであることよ。これでは野良猫やモズ、サギよりも小魚たちにとってはひどい仕打ちではないか。孤独な釣り名人は、人からお世辞に褒めそやされては自慢の腕を人にひけらかすように、「天狗」そのものであった。今ではそれも出来なくなり、殺傷し過ぎた報いが。こちら出勤時に見かける「馬頭観世音菩薩」や「牛観世音菩薩」の石塔、もう一つ異なる路地の寺には「鰌(どじょう)観世音菩薩」の石塔も目にする。〈水草生ひぬ流れ去らしむること勿れ〉(村上鬼城)とか。

(9月3日号掲載)

◇民主党の小沢党首にはあえて同郷の前岩手県知事増田寛也氏を総務大臣に、またいつの頃からか兄弟が犬猿の仲となってしまった民主党幹事長鳩山由紀夫氏に対し弟の鳩山邦夫氏を法務大臣に意識的にぶっつけている。この度の安倍改造内閣の人事の面白さがこの辺かもしれない◇桝添要一参議院議員の取り込みは単に口封じばかりとは言えない社会保険庁への切り込み隊長としてふさわしい妙手とも。歌人与謝野晶子の孫与謝野馨氏の内閣官房長官・拉致問題担当大臣就任は、歴史の重みを感じさえする◇〈君死にたまうことなかれ〉の祖母の反戦の肉声か、〈わが四郎み軍にゆくたけく戦う〉と歌う祖母の二面性をどう受け止めるのか、この内閣のキーパーソンになり得るかに興味がわく◇国民が安心して任せられる政治、せっかちに「良い」「悪い」を気分やムードで判断する時代ではなくなっている。彼らが何をどういう術(すべ)をもってどういう理念の元に国民に益をもたらしてくれるのかだ◇本県から遠藤武彦氏が農林水産大臣に就任した。自給率40%の我が国は「兵糧攻め」にでもあえば一たまりもない国に今や変貌している。農林水産大臣のその渾身(こんしん)の行政手腕に期待したい。参議院の舟山康江氏との国会論戦に期待もしよう。

(8月30日号掲載)


◇東北地整局から定期的に送られてくる地域づくり情報誌ティーコム「T−COM」はその写真も記事も充実していて楽しくなるものばかり。このたび送られてきた号の最後のページには、これからの主なイベントとして6県の行事予定がびっしり詰め込まれていた◇夏の終わりから秋にかけて県内のイベントだけでもここにご登場いただこう。「おばなざわ花笠まつり」、「八朔祭」(鶴岡市)、「日本一の芋煮会フェスティバル」、「ふながた若鮎祭り」、「谷地どんがまつり」、「かみのやま温泉全国かかし祭り」◇まだ続く、「白鷹鮎まつり」、「朝日町ワインまつり」、「夕鶴の里民話まつり」(南陽市)、「秋のバラまつり」(村山市)と。圧巻の「村山徳内まつり」もあの「新庄まつり」も26日に終わった。思いは久しぶりに陽水のイメージ。〈夏が過ぎ/風あざみ/誰のたそがれに/さまよう/八月は/夢花火/私の心は/夏模様〉、まだ残暑が続く−。上司が庄内出張の折り、職員一人ひとりに鶴岡市白山の〈ただだちゃ豆〉をお土産として買ってきてくれた。満月の夜空を仰ぎながらお酒の味もまた格別なものだろう。

(8月27日号掲載)


◇あっという間のお盆休みであった。心頭滅却すれば火もまた涼し、などと快川和尚の心境になぞ程遠い。灼熱で飴のようにのび曲がるレール、靴底がぐにゃっと鳥もちで取られるような一昔前のアスファルト路面、体の内側から膨張するほてり、多治見や熊谷のあの摂氏40度を超える体感をこの山形でもかつて経験した◇山の深い緑が広いキャンプ場を覆い、冷気が誘う。夥しい数の樹木が確実に下界と分ける。独りで山に入るとなお一層そういう思いになる。それだけで何ものかと対話できそうな気にさえなる。不思議なことだ。上空には遭難者を救出でもするようにヘリコプターが何度も沢の方面を旋回していた◇今ではストックを杖代わりにする人が大半だが、こちらは大袈裟にもカジタック製ピッケル型ステッキ。30年近く履いている軍靴のような登山靴。足首を捻っても痛めることはないだろう。登山道に添うように今年も山百合が咲いていた。あるいは偏西風に乗り、遠くカサブランカから極東のこの地までその香が伝え届くなら伝えてほしい。葉月の百合の峰にもー。

(8月23日号掲載)


◇地球そのものが小さくなったわけではないのにそう感じられるのはインターネットなどの素早い情報の行き交いやジェット機などによる交通機能の進歩による距離感短縮にあるのだろう。しかし、それでも地球は足下から突き抜けて180度反対側に位置する自分の姿をイメージするにはやはり大き過ぎる物体だ◇世界をまたにかけての仕事や生活をしている人のスケールの大きさなどと田舎丸出しの思いで単純に人のスケールを推し量ることは難しいかもしれないが、かのフランス国大統領サルコジ氏が休暇をアメリカで過ごしたとのニュース◇しかも週300万円もする高級貸別荘料を払って滞在する大統領の真の意図は不明。何でもルモンド紙の記者は、日本円にして「月給100万円の大統領が払える金額でない。誰が払うのか」、とこの休暇旅行自体を疑問視している◇先進大国フラン大統領の月給が100万円とは真実なのか。日本の総理大臣の月給230万の半分とは。地味給という言葉があるかは知らないが、厳しい国家財政難のお国、フランスの国柄からかまさに〈地味給〉、しかしバカンスは超豪華。サルコジ親米外交の手始めか、国民の反感はいかに。

(8月9・13日合併号掲載)

◇一時期のように国民を2分するような世論や信条が薄れ、そしてまた人が何かに突き動かされるように、それぞれのアクションが世の動きの中である意味が問われていても、生存と非生存との自覚そのものが霞むように薄れ、抱える個別の課題の不明確さが一層肥大化している今日的状況だとしたら◇日々の暮らしの最も避けて通れない日常空間最小単位内での諸行事、例えば選挙や冠婚葬祭、その取捨選択をも含め生きることの意味を一つ一つ解(ほど)いては確かめ、紡いではまた確かめる過程で境界型からどちらかの一方に重きをなすのがやはり夏である◇大きな出来事がなぜか夏に集中することが珍しくないばかりか、台風の目としてそれが必ずやって来ている。そのような節目々々のときにこそ、それこそ良く言われる軸足を何処に定めるのか、経済がらみで今様、〈鎖国〉を真剣に考える人もおり、ナンセンスとばかり他所にあるいは他国に〈利〉を求める術に勢いづく人もいる。絡み合っているありとあらゆる人々の動きの中で開催される今日の広島原爆記念日。

(8月6日号掲載)

◇久しぶりに電気店に入ってみた。のんびり展示されている最近の品々を学習するつもりで。みっともないほどストレートに目当てのコーナーに◇値段2500円のUSBフラッシュメモリーが今日の目的だ。それも雑誌で仕入れた僅かばかりの俄(にわか)知識を引っさげて。プリンターのインクの値段の割高感には、少々、否、かなり腹が立っている。プリンター本体よりも結果的に出費高の手合い◇インクが切れたとき、簡単に買いに出かけようという気にもなれない。高い消耗品だがプリンターを使わない訳にいかないときなど一層腹立たしくなる◇こんなはずでなかったと誰に言えよう。言うか言わないかではない。そんなことも知らず宣伝文句に釣られ手にしたのか。機械メーカーが仕掛けている罠(わな)に陥る愚かな消費者の一人になっている。それでもUSBフラッシュメモリーには重宝しはじめている◇PCにワンセグチューナーを接続するだけで地デジが、となると今度は思いがそれに注がれる。どういうものなのか興味がわく、しかし買いたい病気の早のぼせの癖はいい加減に断ち捨てねば。

(8月2日号掲載)


◇先祖の霊を迎えてお供えを飾る、日本の盂蘭盆(うらぼん)は暑い夏の盛り。季節が丁度逆の冬至に「冬至祭」として先祖を迎えたゲルマン人、メキシコでは11月の「死者の日」に骸骨グッズが街を彩るという。人間の先祖を敬う気持ちの共通性、国の違いや人種の違い、宗教の違いはあっても◇〈盆〉の季節に殆どの日本人は先祖と結びつく。遠く飛鳥の世、657年には斉明天皇が安居院(あんごいん)飛鳥寺の西に須弥山(チベット高原のカイラス山)を模した像を設けて。盂蘭盆会を行わせたとも。須弥山には妙高の意も◇梅雨明け宣言がまだ出ていない東北地方にも盆の季節がやってくる。日本的じめじめ感から脱し、陽気で元気印の人大歓迎とばかり、各地の水辺空間には涼を求めて若い人々が。お茶目はいいが、度が過ぎて人の迷惑にならぬことがマナー◇ビッグなご先祖織田信長が天界から眉をひそめた。子孫・信成君(フィギュアスケート選手)の行状に、「信成よ、やることが小さいー。わしなんぞ馬上翔ぶように瓢箪酒を食らったものよ。」、なぜか今日30日は遺伝子銀行設立の日とか。信長公、今年の「お盆」はどちらにお出ましなのでしょうか。

(7月30日号掲載)


◇参議院選挙がいよいよ間近となった。人は目先のことから出発するにしても、出来るだけ人間の普遍的価値と思われる政(まつり)ごとの実現に勤しんでくれそうな人や政党にと思うが、この判断がなかなか難しい◇似たりよったりとか、違いすぎとか、一つの事柄をめぐる理解や解決の手法、全体と部分のバランスとか、政策の軽重判断や進め方、その解決における立場の相違を瞬時に見抜くことは容易でない◇こちらのこの困難さに乗じて相好を崩しながら向かって来る人々の、声張り上げてのメッセージ。さらに、走り寄っての握手攻勢に、こちらも同じ程度のエネルギーを持ち合わせていないと足元から受身そのものの選挙民となる◇彼・彼女らのエネルギーに目がくらみ、選んだ結果がそんなはずでなかった、と後で後悔しないためにも、耳障りのよい言葉にはそれこそ裏づけを探し見届けなければならないと、こちら今では極めて捻(ひね)くれた選挙人になりそうである◇彼らが手を振りさえすれば、必ずわれらは付いて行くもの、観客は演じ手次第で笑いも踊りもする、などと思われた揚句の果ての失望などせぬよう、選挙民としての自立をいつになく思うのである。

(7月26日号掲載)

◇「新潟中越沖地震」が発生したとき、庭で草むしりをしていた。左右に揺れたので、治まるのを待った。外でこのくらいの横揺れを感じるというのは、大きな地震と思った。隣近所に聞こえるように、「地震だー!」と叫んだ。ちょうど向いの奥さんが自転車に乗って買い物から帰ってきた◇「自転車だから気付かなかった」という。「えっ!」、と少しびっくりする。「余震また来るよ、きっと」、と続けた。余計なこととは受け止めないだろう。その間、暫くの時間が経ち、3時37分頃、それが来た◇新潟、長野には親戚も知り合いもいる。柏崎市には知人の実家が。そう思うと堪え性がなくなり、当人に電話をかけた。繋がらなかった。甲信越にどうしても結び付けてしまうこちら、不謹慎にも、大河ドラマ『風林火山』の登場人物や憤怒の不動明王像が浮かんでくる◇「逆活断層」という専門用語もテレビやラジオから繰り返し流れた。その夜、茨城の友人から「原発は一番使う東京の地下にでも作ればいいんだよ」、と烈しい言葉が飛び出した。まるで砂上に建つ「原発」のようで不安が一層つのる。

(7月23日号掲載)

◇今朝、出勤するとき「くちなし」の花が咲いた。5月の県森林土木建設業協会総会時の帰りに頂いてきた苗木の花だ。この花自身、ほぼ2カ月の間、ひたすら黙してこの日に備えていたと思う◇歌謡曲にもあるこの白さと柔らかな芳香はいかにも楚々とし、歌詞のイメージとダブル。〈淋しい笑顔がまた浮かぶ/くちなしの白い花・・・〉と。しかし、この花はこの花自身であろうから、一度、この有名な歌詞から解き放たれて見なければ◇そう思って見直すと、また別の思いに浸ることが出来る。例えば「梔」(くちなし)は漢名で「し」に近い発音、それを「クチナシ」と読ませる方が和名、それも実を開けるときの口が「口なし」と思えるほど硬いからという◇東南アジアに多く見られ、2bほどになる茜(あかね)科の常緑潅木。学名が米国の植物学者Garden氏にちなむからと「ガーデニア」何々とか。ラテン語にはじまるリンネ分類学や進化論ブームの世界制覇の国と趣を異にし、こちら花の見方も和名「くちなし」の方がソフトで安らぐ。〈くちなしの香もこそ人をおもへとや〉(成瀬櫻桃子)とも。

(7月16・19日合併号掲載)

◇「毎日新聞」と「週刊朝日」が17世紀オランダの大画家レンブラントの作品『黄金の兜の男』をめぐって今、熱い火花を散らしている。ドイツ・ベルリン国立絵画館所蔵のこの油絵に瓜二つの作品が大阪で見つかったという。一般的には、どうせ偽物だろう、彼には弟子が大勢いたはずだからいわゆる工房作品も少ないはずと◇だが、熱い火花というのはわが国で油絵修復の第一人者の黒江光彦氏が依頼を受けて約2ヶ月間X線調査や、キャンバスの張り方など、詳細に観察し検討した結果、レンブラント一門による作品の可能性が高いと判断したというのだ◇鑑定者はレンブラント直筆とは断じていない辺りがミソだが、毎日のあたかも直筆めいた騒ぎ方にここぞと朝日が冷や水を浴びせた格好が面白いのである。そもそもベルリンにある作品自体、弟子による工房作と1980年に一応結論が出ている。それでもなおレンブラントが手を加えたかもしれないと、大事に所蔵している。何より、黒江光彦氏といえば山形が生んだ西洋絵画修復の大御所。目利き腕利きがレンブラントに挑んでの話である。

(7月12日号掲載)

山形市の住宅街に住む住民同士の意識は以前に比べカサカサと乾いてきている感じがする。特にアパートが建ち並び、10bと離れていないところに引っ越してきた人たちがいても、特に近親感を抱くような思いにはなれい◇そもそも、姿かたちを見かけることが少ないばかりか、小さい子供はいるのだろうが道路で遊ぶ子供の姿がほぼ皆無、もちろん道路で遊んではいけないことになっているのだろう。10年前に比べ、人は確実に10倍以上増えている◇スーパーに向かう車、その帰りの車がひっきりなしで家の車庫からの出し入れも以前に比べ神経を使う。「大都会並でないか」と思うほどだ。町内の老人クラブの資格には達していないが、さりとて幼稚園や小学校・中学校に通う子供も家にはいない◇町内は2極化の方向に確実に傾いている。老人世帯と核家族で移り住んで来た若い人々の世帯である。今、幸か不幸か双方の交流はほとんど皆無である。交流が必要であるのかないのも不知のまま。それぞれの世帯生活を「隣組」という町の最小単位のなかでヒッソリと送っている。

(7月9日号掲載)

「法務省」といえばお堅い役所の中でとりわけ遵法精神を率先して司るお役所。その法務省の下に公安調査庁という役所がある。厚生労働省の下に社会保険庁があるのと同様にである。そもそも公安調査庁という役所はどのような役所なのか◇「公安調査庁のウェブサイトにようこそ」で、「公安調査庁は、テロ組織など、暴力で自分たちの主張を押し通そうとする団体などから、国と国民の安全を守る仕事を行っている行政機関です、と同庁のホームページ◇そして、「例えば,過去に多くの人々を無差別に殺害したオウム真理教という団体に対し、二度と同じことを起こさせないよう、調査を行っています。また、このような調査を通して得られた情報を、必要に応じて、首相官邸を始めとする政府関係機関に提供し、国の行政の施策に貢献しています」と◇その役所の元長官で弁護士の緒方重威容疑者(73)と元不動産会社社長満井忠男容疑者(73)が在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)中央本部をめぐる詐欺事件で逮捕されたが、「中央本部の土地・建物の売買契約を結んだ翌日、2人で韓国に出掛けていた」(時事)と◇読売も「海外渡航した目的は、旧日本軍が中国で遺棄した化学兵器の処理事業に参入するためだった」とし、同じ「法務省」下の東京地検特捜部が両容疑者が朝鮮総連から不動産や金をだまし取る一方で、国が巨額の費用を投じる事業で新たな「もうけ話」に乗り出そうとしていたとみて調べている、と報じている。単なる詐欺事件ではない政・財・法曹界を巻き込むとてつもない大きな事件かも。特捜部の見せ所に違いない―。

(7月5日号掲載)

◇「全国安全週間」(7月1日〜7日まで)の初日。国民安全の日でもある。「安全」「安心」の言葉を耳にしない日はない。1960(昭和35)年5月の閣議で、産業災害・交通事故・火災等の災害防止を図る為に制定された◇60年といえばあの「60年安保」の年だ。「日本は米国の経済的その他いろいろの援助を受けて立ち直ってはきたが、内心には一種の劣等感があり、一方米国は優越感を持っている◇これらは占領時代の残りかすであり、それを払いのけることによって真の平等の立場が生まれてくる」(岸信介『岸信介回顧録』)と安倍晋三首相の祖父は述べている。「全国安全週間」が設けられたのは国内が騒然としていたときでもある◇日米安保条約第一条には「極東における国際の平和と安全の維持」の文字があり、「教唆または干渉によって引き起された日本国における大規模の内乱及び騒じょう」という文字もある。いま、自然の天変地異に対する安全・安心―とともに、人為による変異への懸念も安全・安心には繋がっている。「衣・食・住」の環境を奪うことも壊すこともない世に。食糧安保・介護安保・格差是正安保においてもや。

(7月2日号掲載)

NHKで『新シルクロード』をみた。ひとつの「道路」をたどり100を越す民族が行き交う道―、と松平アナのナレーション。カザフスタンやウズベキスタンの国境近くのとあるバザール、そこでは東洋・アジアのサラダとしてキムチに似た食料品が売られていた◇売っていた女性の先祖は遠く朝鮮高麗から、あのスターリン時代に強制移動させられてこの地に来たのだという。年老いた老人2人が70年も前の祖国の記憶を忘れまいと日記帳にしっかりとハングルで記していた◇そこには故郷の山々を懐かしむように口ずさんでいた。そのメロディに聞き覚えがあった。日本では戦後昭和20年代によく地方旅公演のサーカス会場で流れる曲と瓜二つであった。歌詞は異なるが〈空に/さえずる/鳥の声/峰より落つる鳥の声・・・〉のあの曲なのである。なぜこのメロディが今、数千キロも離れたところにいる老人の口から流れるのか◇昔の朝鮮と日本の関係を思い浮かべた。時代に翻弄されながら生き続けなければならない人々がいる。調べるとこの曲は岩国出身の田中穂積作曲という。山形では今、木下サーカス。

(6月25・28日合併号掲載)

「女性がより活躍できる環境に向けた取組」とは、このたび発表された『男女共同参画白書』の第一部第3節の見出しである。その中に働き方の見直しとして、各国の子育て支援制度が紹介されていた。スウェーデンでは、保所と家庭的保育サービス(ファミリーデイケア)ともに充実していて、利用割合が48・0%◇日本の保育サービス利用(0歳〜2歳)は13・0%と低い。スウェーデンでは両親休暇(パパ・ママ・クォータ)が両親合わせて480日(給付も480日)390日は賃金の80%の保障◇これに対して日本の育児休暇は子が1歳になるまでの期間、休業前賃金の40%相当、産前6週間、産後8週間(60%保障)となっている。実際は、一部企業を除いて多くの若い母親は退社に追い込まれる◇スウェーデンでは、機会均等法、パートタイム労働法(8歳以下もしくは基礎学校の第1学年に通っている子供がいるときは通常の労働時間を本来の1/4にまで短縮可能という。ドイツの保育所は3歳未満は供給量不足とも。さすがフランスは出産休暇も賃金保障100%と手厚い。

(6月21日号掲載)


昨日は「父の日」。映画やアニメからのイメージだけで恐縮だが、「サザエさん」の父上波平氏に比べると、「ちびまるこ」に登場する些か投げやりな口調のヒロシ父さんや、その父親で頼りなさそうな友蔵爺さん、銀幕では若い時分から老け役で日本の代表的父親像を演じきった俳優の故笠置衆氏◇虚実入り混ぜて恐れ多いが、日本の父親像を今日的にイメージするというと、これが意外と容易ではない。社会的関わりの中で男性の位置する仕方も一様でなく、それが家庭での位置のありようとも重なって、「父」としての役割の変化がそれぞれにもたらされる◇生来の気性も気質も性格も社会の変化とともに言葉遣いが変わり、表情が変わり、物事の受け止め方が変わり、発し方が変わり、さまざまな場面で時に無表情に変わる。頼りがいある「父親」としてのイメージを何処に求め見出して行くべきなのか◇これが一様でない。一様に皆同じであるより、同じでない方がより自然で好ましいともいえよう。画一的とならず個性的で自由なそれぞれの家の「父の日」があるということにもなるのだろう。社会の規範となる「家」の「父親像」も見えにくい時代とはいえ。


(6月18日号掲載)

◇カンヌ映画祭で女性監督として初のグランプリ(審査員特別大賞)に輝いた河瀬直美監督の『殯りの森』(もがりのもり)をテレビでみた。全国劇場上映は6月23日からのスタートだという。このタイトルの読み方も意味も分からなかった◇広辞苑によると、「殯」(もがり)は「貴人の本葬をする前に、棺に死体を納めて仮に祭ること。また、その場所」と同じ意味とのこと。「のぼり」ともいうそうだ。映画は深い山奥というわけでもなく、ほとんど里山内での撮影か◇大規模な撮影セットも、登場人物も見られない。ほぼ主役2人を中心にした物語り。愛妻を失った軽度認知証の男性「しげき」と息子を亡くした美しい若い介護福祉士「真千子」の単純な言葉、亡妻を追いうようにして山に分け入る「しげき」、それを追う「真千子」◇難しい台詞はない。省エネ、節約、そして、田畑や端山の森という原日本的風景そのものの映像。手を加えないドキュメントタッチの画面から、ごく当たり前の人の日常景色が映り、流れそのものがドラマとして評価されたのかも知れない。


(6月14日号掲載)


◇ある会合を山寺の風雅の国で行った。例年は予約時刻の少し前でも部屋に入って待たせてもらうことが出来た。それが今回はそうでなかった。まだ「部屋の準備が整っていないので」という。サービス業というのにな、何か都合でもあるのだろう、と思って待っていた◇カウンターの店員の一人が「お食事は12時調度のご予約と承っております」という。「おかしいな」と思いながらも、好天気と景色のよさに気持ちにもゆとりのようなものがあって、何十分でも待っていようという気になっていた。そのうちスーツ姿の少し目つきの鋭い何人かの人が入口付近を行ったり来たりし始めた◇耳にレシーバーをしていた。そこに腕章を付けた女性記者らしき人が現れ、誰かにインタビューをしはじめた。「何か、あるのかな」と不思議に思っていると、「表に熱烈歓迎という看板があるよ、と仲間の一人がいう。その日二ユースで、台湾から李登輝前総統が芭蕉の奥の細道を訪ねて山寺に。G8サミットを睨んだ来日かもしれないなどとも思った。静けさや『腹』に浸み入る虫の声ー。

(6月11日号掲載)

◇テノール歌手の秋川雅史を知らなかった―。そしてその唄も。NHK「紅白歌合戦」はここ数年見ていない。『千の風になって』のメロディや歌詞を最近やっと耳にした◇最初は、4月に亡くなった人の偲ぶ会で。〈わたしのお墓の前で/泣かないでください・・・〉と口ずさむ友人。2度目は、仕事関係での知人が偶然にそれをカラオケで唄って聞かせてくれた。いい歌だなと思った◇3度目は、5月に弟さんを失くしたばかりの人が「弟は千の風になって、曼荼羅の世界へ行ってしまった」と。昨日は至急の電話でかつての上司だった人の死を伝えてきた◇生命の萌え出ずる季節だというのに、それと同じくらいの速さで空高くに昇って行く人たち―。人がその人の「形」から自身を抜け出していく。歌は〈眠ってなんかいません/死んでなんかいません〉という。〈千の風になって/あの大きな空を/吹き渡っています〉と◇洋画家前田常作の小さなリトグラフを眺めた。そこには蒼穹というよりも夜空に輝く星々と中央に抱かれるように胎蔵界の世界が。歌の吹く風の流れとは異なる世界のように見えた―。

(6月7日号掲載)

◇「2万円」という価格が「物」によって高いか安いかだ。人によっては分かれるところ。その「物」というのはSP・LPレコード盤を後生大事に家に持っている人にとって、CDなどに手軽にデジタル化できる装置のこと◇PCに取り込むことも自分の好みに楽曲やその順番を編集出来るというのだ。当然あの懐かしいターンテーブル付きレコード針による再生装置付きである。アナグロ方式の復活か◇それだけでもなんだか有難い。製品はすでに新聞の通販広告などでも見かけるが、写真で見る限り本格的なオーデオマニアの人から見れば、再生装置はいかにも貧弱な感じ◇ターンテーブルにしてもアームにしても、「針」は大丈夫なのだろうか。かつてパイオニア、山水、トリオなどのオーデオ装置を自慢げに見せてくれる先輩がいた。今の世、デジタルの勢いに押され放し◇日本でほぼ唯一、本格的にこのアナログのレコード針を製造し続けている企業が東根市蟹沢にある。「ナガオカのレコード針」で有名なメーカーだ。企業「ナガオカ」は生き続けている−。

(6月4日号掲載)

◇列車のダイヤのように緻密な性格の友人がJR勤務を定年退職した。それを記念に奥さんと2人、10日間ほど日本を留守にした。旅行会社が企画する海外ツアーに申し込んでの参加◇その彼ら一行、フランス北西部ノルマンディー地方の海に浮かぶ小島、世界遺産「モン・サン・ミッシェル」(修道院・砦・監獄)にバスで到着した途端、ツアーコンダクターから「早く走って!」と急かされたという◇後ろにいる奥さんを気にしながらも自分は「ホイホイ」先に走ったという。すれ違う多くの外人が「ジャパニーズ?チャイニーズ?」と話しかけてきたとも。彼らは悠然と歩いているというのだ◇それと対照的にチャカポカと走り、あげくの果てにはバスにカメラを置き忘れ、取りに戻ることも侭(まま)ならず、仙台から同行の人にカメラを借りたはいいが、そのカメラも電池切れと、「もう、散々みしぇられて」と洒落る◇帰国して頂戴した絵葉書のおみやげ、その中の一枚にその「モン・サン・ミッシェル」。剣を持った大天使ミカエルに「見限られない」と強い意志をもつ友人にはただ脱帽―。

(5月31日号掲載)


◇気になる最近のニュースから当欄なりにファイルしたくなった。こちらまた奥歯が痛み出して来そうだ。社会保険庁指導医療管理官と東京歯科大同窓会本部をめぐる贈収賄事件。何が緑か、真っ黒焦げの天下り緑資源機構による官製談合◇荒れ放題の杉林にし、蝮(まむし)も住めなくしておきながら。そもそも、過ぎたるはなお及ばざる如し(孔子)と言うではないか。まさに杉オンリーの植林政策のつけが花粉症とは◇あの時分、ブナはしきりに切り倒されてはパチンコ台に。今も農林業いじめの中央農政、その都(みやこ)の大臣(おとど)は表情一つ変えずに白を切る。そのうち大きなボロを出すよ。見てはおれないかばう総理の浅はかさ◇人も獣も怒っているよ。いや、本気で怒らないのは人間だけか。地球そのものが怒り始めているというのに。人の食料よそに車の食料にとバイオエタ増産へ。その結果の歪みがすでにアメリカで。高騰続く市場◇中国発の食品には要警戒、「複合汚染」がまだ続いている。安心・安全はまだまだ遠い。森も高木限界から森林限界があるように、よもや今「地球限界」のシグナルが。地球と人間が本当に壊れないように―。

(5月28日号掲載)

◇テレビでの観戦、久しぶりにサッカーの試合を見た。「モンテディオ山形」と「東京ヴェルディ」との戦いは、実に見ごたえがあった。モンテディオのプロの技がふんだんに出て飽きさせなかった。あのときはまだ順位1位、これからがチームの見せ所◇あのジーコが活躍した鹿島アントラーズのホームスタジアムを初めて目にした。試合を見たわけでないから迫力に欠ける。しかし、その施設だけの「観覧」でもピッチを目の当りにすると、満場の熱気、歓声や波打つウエーブを想像し、臨場感を垣間見る◇春の東京6大学野球、「早―明戦」もテレビで。カメラは早大の新人齋藤選手を追うように映していた。見事なピッチングだった。「自分の頭にはやはり早慶戦しかない」と、正直に胸のうちを隠さなかった◇「都の西北」(早大)、「若き血に燃ゆる者」(慶大)、「白雲なびく駿河台」(明大)、「若き我等が生命」(法大)、「セントポール」(立大)、「闘魂は」(東大)と青春が爆発する。テレビでは年配のOBと思しき一団が拳を固め腕を振る。往年の若者が共に母校への熱き声援を送る。さわやかな五月の空−。

(5月24日号掲載)

◇神栖市に住んでいる友人に招かれ、米沢の先輩の車に同乗して茨城県を訪れた。当方、訪ねる日にこだわった。なぜか先方に5月3日の「憲法記念日」を希望した。それは間違いではなかった◇主目的の一つに、義父が少年の頃、志願して水戸の内原にある「満蒙開拓青少年義勇軍内原訓練所」(所長加藤完治)に入所したため、一度この目で確かめたいと思ったからだ。あの戦争の悲劇はわが家にもある◇3年間のシベリア抑留を経て舞鶴港に辿り着いた義父は、敗戦直後の挫折感を満身に帯びていた。心の荒みようは癒されがたかったようだ◇不断口数の少ない義父が、少し酒が入ると「加藤完治先生は・・・」の言葉を繰り返した。加藤は旧平戸藩士族の出、第四高等学校(現金沢大学)時に受洗、キリスト者となった。東京帝大農科大学に進み、「土」に生きることを決意。初代山形県自治講習所長となり、10年間山形に。そして農村問題は「農地問題」に帰着し、営農の困難打開を海外開拓にと◇加藤はそのとき「軍」と結びつくことになる。内原訓練所を中核に戦場に送り出された14、15歳の少年たちは実に8万6540人。鍬と銃の内原の地には散った桜の「渡満道路」が現存していた。

(5月21日号掲載)

◇青葉若葉が薫る好季節、「山形県森林土木建設業協会総会」取材時の帰り、「クチナシ」の苗木をお土産として頂いてきた。さっそく、家の庭木の一員に。「森林」がわたしたち人間社会にどれほど多くの恩恵もたらしていることか◇日本の原風景「杜」(もり)を形成し、その息吹に触れ、荒れた山腹は復元することなど人の責務、そして郷土の山々、山里深い集落に、近くの里山に、そこに住む里中の暮らしに一層の恵みを◇森林の荒廃が叫ばれてから実に久しい。はか行かない下刈り、枝打ち作業、間伐材等への不断の取り組み、植育造林は人類の使命、徒な「皆伐」にならぬよう、「禿山の一夜」とならぬよう、切ったなら植えるという原則を守るための作業道整備も車の両輪として重要◇外材の高騰から国内木材資源が見直されている折り、30年・50年・100年先を見越した山の「森林」形成事業には、山を荒らさぬための治山治水とともに安全作業の面における作業林道を無視することは出来ないはず。山林所有者の公共的使命は地球的規模においても人類存続に関わる。


(5月17日号掲載)


◇野球帽にチノパンツ、もしくはジーパンにズック、これにベストでも着ると毎日が「日曜日」の現役卒業の小父さん定番スタイルになる。しかし、その思いは各人各様、社会への関わり方において一喜一憂する◇2025年には、このままの人口動態から2人に1人が65歳以上の地域もあるとのショッキングな数値も。地域によってはすでにそうなっているところもある。このままだと自然消滅してしまう現実味がいよいよ強くなる◇利便性の良いところに「移っていらっしゃい」などと簡単に言うことも出来ない。田舎暮らしに憧れたが、東京の人からみれば山形そのものがその範疇。何とか踏ん張って生きて行くしかない◇新しく建てられた住宅に囲まれるように、わずかに残された2枚の田んぼの1つに鴨が一羽、顔を水につけ、お尻を空に向けては餌を探していた。少し離れた「恥し川」にも小鷺や鴨が飛来する◇月夜の晩に「クワッ、クワッ」と空を飛ぶ野鳥も。山芍薬(やましゃくやく)も咲き終え、まもなく鉢植えの「鷺草の花の窺う方位かな」(後藤夜半)の頃となる。

(5月14日号掲載)

◇何十年と自民党員である高校の先輩が「憲法九条は守るべきだ―」、と念を押すようにいう。「九条」が空想でも理想でもよいではないか、このままだと歯止めの利かない勢いで、ズルズル行ってしまうよ―、ほんとに◇「日本をスイスのような国にすればいいんだ」と先輩は続けた。「そうかもしれない」とこちらも。集団的自衛権をもって日本の自衛軍がドンドン他国に出かけて行くようにでもなれば、いつしか〈守り〉の姿勢がなりふり構わずの〈攻め〉になる◇若者の内に向かう社会的閉塞感を外へ向けるように国策・人為的に鬱積(うっせき)解消との抱き合わせ目論見は、これまで〈義勇〉の〈勇〉の多くが悲惨な結果として教えている◇井上ひさしは「勇ましさ」より「おだやかさ」を、加藤典洋早大教授(山形市出身)も「9条がこれまでこのような形で生きのびてきたことを忘れないほうがいい」という。そして「しかし無論戦争の体験のまったくない、筆者の感想として、憲法9条は大事だ、しかし、ちょっと恥ずかしい。ここらあたりが憲法9条を擁護する場合の、好ましい起点」と。「罪」と「恥」の差もこの先にかかっている。

(5月10日号掲載)

◇安倍首相が訪米した。同時にサウジアラビア、カタール等をも歴訪。訪問して悪いことはない。しかし、その「時」と「仕方」と「姿勢」、これまで同様に繰り返される共通のパターンをそこに見る◇「やっぱりな」と思う。日本は丁度、大型連休でもある。「本山」詣(もう)でするには好都合の時期なのである。帰ってから、積み残されている重要案件がすぐに待っている◇出発前の4月25日には、「憲法記念日本国憲法施行60周年記念式典」を一通り仕終えた。先の温家宝中国首相との会談の結果についても、直接「皇帝」に報告しなければならない◇それに、何より北朝鮮の今後の出方を〈読み合う〉作業も双方にはある。一致を見届けなければならないと。自立の外交か、それを世間がどう思うかではなく、3代にわたるこれは信念のDNAのなせる業(わざ)と所作(しょさ)だ◇この際、世界を向こうに回してでも忠実な同盟国の心意気をかの皇帝には伺(うかが)い示す必要があるのだと。金正日総書記の2男の世襲も決まりそうだとも。「日・米」の構図だけでは済まないはず−。

(4月30日号掲載)


◇連休が過ぎる頃、「母の日」がやって来る。Frank・A・Breckの詩、〈まぼろしの影を追いて/うき世にさまよい/うつろぅ花に/さそわれゆく/汝が身のはかなさ/春は軒の雨、秋は庭の露、母はなみだ乾くまなく、祈ると知らずや〉。胸に響いて来るGilmourによるメロディー、〈おさなくて罪を知らず/むねにまくらして/むずかりては手にゆられし/むかしわすれしか〉。友人数人と「母の日」を前にその母よりも早くに逝った人の家を訪ねた。息子の供養(くよう)を年老いて残された母親が行なわなければならない、その痛みこそこの世の辛さの極み―。そのあと、斎藤茂吉記念館に皆で寄った。みゆき公園の桜並木が春の雨にうたれてしっとりと煙っていた。やはり、ここにも母がいる―。〈のど赤き玄鳥(つばくらめ)ふたつ屋梁(はり)にゐ(い)て足乳(たらち)ねの母は死にたまふなり〉(茂吉・31歳)と。その晩、容赦なく降る雨音に目が覚め、「人」の「母」と「子」の深い結びつきを改めて感じた。〈少年の髪白みゆく桜狩〉(齋藤
愼爾

(4月26日号掲載)


◇馬見ヶ崎川沿いを車で通ったらツバメがスッと横切った。「ツバメ返し」とはよく言ったもの。飛んでいると思った瞬間、方向を変える。変えるというより、身をひるがえして「反転」させる。切っ先を返す剣術の手と辞書にもある◇その翼が刀身のようにさえ見えるスマートな川下のアマツバメ。それより幾分ずんぐりしているイワツバメは、上流の蔵王ダム周辺で以前よくみかけた。垂直に近いダム壁にしがみ付くように必死に生息する◇菊と刀と桜は時代劇に極めて近い距離。ヨーロッパでは、とりわけ騎士が赤いバラを女性にプレゼントするなども映画で◇きのう23日はスペイン・カタロニアの守護聖人サン・ジョルディを記念する祝祭日。十字軍の先頭に立ち、イスラム圏への遠征時にカッパドキア(トルコ)で戦死した武人◇このカタロニア地方は20世紀に入ってから度重なる市民戦争に明け暮れた。この地方の人々にとって市民としての独立抵抗精神は伝統的に今に続くもの。だからこそ『カタロニア賛歌』として、多くの人の共感を呼ぶのだろう―。

(4月23日号掲載)

◇山形はここに来て花の季節―。〜春はやまがた舞桜〜の市報の文字にうながされ、土曜の午後の数時間を霞ヶ城ですごした。再建したばかりの本丸に架かる大手橋、一文字櫓の石垣、その土塁が真新しい◇今はまだ空掘りとなっているが、ここに水が張られればさらに一段と風情が出ることだろう。その本丸土塁を舞台に繰り広げられた時代絵巻を遠くから眺めた◇鎧兜に身を包み扮する馬上の武将こそ、今は昔の城主最上義光公なのだろう。張り巡らされた陣幕には最上家の家紋「二つ引両」とこの城最後の主(あるじ)水野家の家紋「水野沢潟」が同時に染めぬかれていた◇桜にことよせ宴を催す人びと、その思いも色々、今も昔も変わらない。俳人からこの季節の贈りものを散りばめてみる。〈花あれば西行の日と思ふべし〉(角川源蔵),〈満開のふれてつめたき桜の木〉(鈴木六林男)、〈朝がけの大きな枝垂桜かな〉(田中裕明)、妖しくも自立する人〈花衣ぬぐやまつはる紐いろいろ〉(杉田久女)と◇花筏があるとすれば、それは雅びな人ばかりとは限らない。一寸法師とて。

(4月19日号掲載)


◇今、東京港区の六本木ヒルズ周辺が、若い人からも年配の人からも注目されている。特に美術やデザインに関心のある人にとっては。まず「森美術館」、そしてこの春にオープンしたばかりの「国立新美術館」、極めつけは同様に東京ミッドタウン内にお目見えした「サントリー美術館」と「21_21DESIGN SIGHT」か◇何とも元気のよい東京である。しかし、わが国の美術界もデザイン界も現在、どれほど強烈に世界にインパクトを与え続けているのか。案外それが実はそうでないという日本の現状が見えてくるというのである◇それゆえ「21_21」には、ファション・デザイナーの三宅一生氏や安藤忠雄氏らが将来ある若手クリエーターへの夢を託す。そして上野でのダ・ヴィンチ作『受胎告知』に相伴するように、六本木ヒルズ森タワーでは世界で年一度、一カ国だけしか公開されないというレオナルドの直筆ノート『レスター手稿』の展示も◇ウィトルウィウス的人体図、フィポナッチ数列と、この一帯が黄金分割されて「1対1.61803・・・」と奇妙に合致するようになるのかもしれない。

(4月16日号掲載)


◇教養としての外国語、日本人の外国語音痴はつとに有名だが、音痴の一人としてこと英語ぐらい話せるようでなければどうにもならないだろう、という意見には「その通り」というしか出来ない。外国語の苦手な民族としては、この〈超一級国〉のある種、苦々しいレッテルを簡単に剥(はが)そうにも剥がせそうにないのである◇自国語においてすら、〈腑〉に落ちぬことに慣れさせられ過ぎているための「言の葉」を、土深く眠らせて終いがちになる危険があるという◇グローバルな世界の中で、孤立の危険性を孕(はら)む外国語音痴のわが民族に「それだけは避けたい」、と為政者がはたしてどれほど真剣に対策を講じようとしているのか。人の営みにおけるその民族の〈言の葉〉の持つ論理性、その論理性を省略することで日本人的なあの独特の〈余韻〉だけの世界に◇「美しい国」のその成り立ちが、まずはじめに「言葉」があればその言葉の持つ意味を曖昧なものでないところからスタートしなければとも。日本人そのもが言葉を疎外し、言葉から人が疎外され、一層〈腑〉に落ちない言葉そのものとならないために。

(4月12日号掲載)


◇全国的に公務員退職職員の営利企業への再就職自粛について活発化しつつある。「官製談合防止」のため昨年12月、全国知事会が公共調達に対するプロジェクトチームを立ち上げた。このことに本県も積極的に乗り出した◇県のホームページでも、具体的に平成19年度より適用するという。「課長級以上の職員の再就職の取扱い」として明示。課長級以上の職員については、退職後2年間は退職前5年間に在職した職と密接な関係のある営利企業への再就職を自粛するように―と◇さらに、退職後2年以内に営利企業へ再就職する場合、退職後2年間は県への営業活動に携わらない旨の誓約書を提出―と。密接な関係の有無にかかわらず、退職後2年間、営利企業へ再就職しようとする場合は事前に届出を―とある◇また、「再就職にあたっての注意喚起」として、職位にかかわらず、職員が営利企業へ再就職する場合には、県民の不信や誤解を招くことのないよう注意喚起している。課長級以上の職員(退職後2年以内の者に限る)の再就職状況をも公表に。納税者の眼が光る。

(4月9日号掲載)

◇黄砂により太陽が白くなって西に沈んだ。沈む前から空には花粉も黄砂もともに飛んでいた。用心のためマスクマンに変身。これに帽子を深くかぶれば、まるで正真正銘の泥棒の出で立ちだ。いわくありげな風体そのものとなる◇ほとんど「笑点」落語の小遊三師のネタに近い世界の人にである。入社、入学と年度始めにこの身なりでは情けない。石坂公成先生にアレルギー抗体についてご教授いただくためにも、まずこざっぱりと身なりを整えなければならない◇幸い重症でないから日常生活、特に呼吸できなくなるほど苦しい鼻の詰まりもない。睡眠の妨げにならずに済んでいるのが救い。依然に比べ、心身の感受性が鈍くなっているのだろう。アレルギーと健康、壊れやすい現代人の心と肉体◇めげずに形振り構わず図太く前に向かってドンドン行けば―、などと思える人は幸いである。元気な人が側にいると皆元気になりそうだ。それは確かだ。会社に毎月薬屋さんが訪れる。目薬は前回買ってもらった。薬に依存することなく自身の免疫力をアップして各人のテーマにいざ!

(4月5日号掲載)

◇能登の早春を思い出す。春の海の穏やかな朝の光、まるで鏡のように広がる内海に、紅・白梅が見事な透過の彩(さい)を競っていた。その能登半島に激震が見舞った。一日も早い被災者の救済と支援、崩壊した家や道路、ライフラインの復興を願いたい◇太平洋側に多いといわれる海底・大陸両プレートの相克、よもや日本海の能登半島にとは―。詳細は今後の科学的所見・報告を待とう。素人なりに思った。あの日本地溝帯(フォッサマグナ)には、少なくとも石川県は山形県より遥かに近い◇だが、東日本と西日本を分断する地質の相違からの要因ではなさそうだと聞いた。あの能登輪島の地に予測もしなかった震天動地が。「風神」「雷神」とは異なる「地祇・じぎ」(大地神)の響きそのもののよう。「佐渡の鬼太鼓」よりも恐ろしい「輪島の御陣乗太鼓」が振るう撥(バチ)の震響そのものとなった◇金沢の町を流れ下る犀川のほとり、川下から川筋に吹き上る季節の冷たい風を受け、能登を目指した青年、「フォッサマグナではないです―」と言い切る。謙信に近い越後の青年よ―。今、山形はやっと梅の香の季節。

(4月2日号掲載)